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二人の天魔王「信長の真実」

権力者の孤独



「天魔王」織田信長とは、一体どのような武将であったのか。豊富な文献・資料を縦横に駆使し、従来とはちがった驚くべき実像を浮きぼりにする。信長は父・信秀の嫡統だったのか。出自の解明から数々の奇行、合戦に隠された謎に迫る。そして、もう一人の天魔王・足利義教との対比から「信長」の真実を明かす。

信長は誰からも愛されない。誰も信長を信じない。誰も信長を必要としない。すべてに利用され、そして死んだ。


二人の天魔王―「信長」の真実
明石 散人
講談社 1995-09


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歴史が好きである。

それは小学生の時、休み時間にずっと偉人伝記を読んできたからであろう。
あまりにも夢中になり授業開始のベルが鳴っても気づかず、不審に思った同級生全員が私を捜索し、図書館で発見されたということがある。

あまりまわりの人とは趣味が合あわない私ではあるが、この歴史好きというのはどこにでもそこそこはいるようで、他人とわかりあえる数少ない趣味となっている。
だが、ゲームの影響だろうが日本史好きというのはたいてい戦国時代好きであり、他の時代には詳しくない。
いや興味がないと言ったほうがよいのか。
室町時代などせいぜい足利義満まで、という人が多い。
これはもったいない。
室町時代は皇国史観の影響で冷遇されてきたが、実はとてもおもしろい時代なのである。

本書は、天魔王と呼ばれた男織田信長をもうひとりの天魔王足利義教と比較し、新しい信長象を映しだした書である。

信長の真実というサブタイトルが付いてはいるが、主役は足利義教といっていい。
この足利義教、信長をおしのけて主役を張るほどのものすごい人物なのである。
いわば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の師匠なのである。

義教とはどんな人物なのか。
「比叡山攻め」「南朝殲滅」「関東平定」「宗教界制覇」「九州平定」を成し遂げ、わずか13年で奥州から琉球まで制圧した。
これが彼の業績である。
どれをとっても偉大なことだがこれをひとりの人間が成し遂げたのである。
業績だけを聞いただけでも彼が日本史史上屈指の英雄であったことが分かる。
だが義教が偉大なのは結果を残しただけだからなのか。
では、義教のもっと深いところを見てみることにする。天魔王と呼ばれた義教である。 

義教が天魔王と呼ばれるようになったのは、義兄の日野義次が自分は将軍の義兄であると声高に吹聴したため所領を没収し閉門を命じたことと、
そして義次の実妹で義教の室の重子が7年目にしてようやく嫡子(義勝)を出産したとき、そのことにより義次への罰が解かれるだろうと思い義次の家へ祝賀にいった人をひとり残らず厳罰に処した事による。
普通将軍の義兄で次期将軍の祖父ともなれば栄耀栄華を極めることになるのだが、この義教の処置により当時の日野家は惨憺たるものだった。
これは義教が権力は「純粋に個人のもであり係累に及ぶものではな」く将軍ひとりにのみ存在すると認識し、「将軍の権勢を何人も利用してはならないと考え」たのである。
この義教の姿勢を著者は高く評価する。
「今の世でも、権力者の家族、親戚、親友、忠実なスタッフ、たったこれだけの理由であたかも自分も権力者になったかのように錯覚し傲る人が多い」からである。



よく独裁者の孤独という。
私はこれを当然と思う。
権力者は絶対的な孤独でなければならない。
誰より愛する家族であろうが信頼するスタッフであろうが、自分以外の者であるという点については、赤の他人と一緒である。

考えてみるといい。
権力というものが一義的ではなかったとき世の中はどうなったか。

格好の例がある。足利義政の治世である。
義政は父義教と違い政治力はなかった。ゆえに権力は日野富子、細川勝元、山名宗全など多くの者が持つこととなった。
その結果どうなったか。
応仁の乱が起こり京都は灰燼と化した。
絶対的な権力を持つ義教が赤松満祐に殺されず、生きのびていれば応仁の乱は起こらなかっただろう。



「己はこの世の中のたったひとりの己である」




今の世の風潮では孤独を完全な悪と糾弾する。
成功者の奇行をあげつろい、やれ家族の愛が足りなかったのだ寂しい人生だのいう。

だが孤独だからこそ成しえるものがあるのだ。
物事は単純に割り切れるものではない。

孤独にも善と悪の両面があるのだ。それを自分の考え方にあうほうだけをと、自分の思考の範囲外だからと片面のみの効用しか認めないのは狭い了見としか思えない。

人間とはそう単純なものではないのである。


未来放浪ガルディーン 3巻 大豪快。

ふたつの奇跡



(過去ログ転載)
火浦功未完の大作(この作者、未完の大作以外あったっけ?)。はるかな近未来?の物語。そうSFです。帝国に反逆するコロナ<筋肉娘>フレイヤー、シェラ、スリム<口先男>ブラウンの三人組に、おまけのヤマト・マーベリック、おっと忘れてはいけない、歌って踊れてベタも塗れる<完全兵器>T-178<ガルディーン>のパーティーの珍道中を描いた作品。……うぅ、嘘は書いてないはずなのに、何故か自分が大うそつきの気がする。この本のあらすじ書くの無理です(泣)

デジャブか?  ――いや、アンコールさ。ヤマトは、自分にそう言い聞かせて、ゆっくりと歩き始めた。新たなる冒険だかお笑いだかの旅に向かって。


大豪快。―未来放浪ガルディーン〈3〉
火浦 功
角川書店 2000-12


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21世紀の奇跡ここにあり。
未来放浪ガルディーン、14年ぶりに連載再開す。

うぅ、それにしてもまさか世紀をまたぐ作品になろうとはっ。
感慨がありすぎて涙なくしては読めない、でも読むと笑っちゃうという
二重に?お得な作品になっちゃいました。
このままの勢いでいけば、ホントに完結するかもしれない。
そうなれば、まさに奇跡。奇跡中の奇跡。
世界が滅びなかったのはこの奇跡を待っていたからだ。

ここでひとつの奇跡の話をしよう。
いや、火浦功の奇跡とはまったくこれっぽっちも関係がないのだが。
ただ誰かに話したかったんで。

私の知人にケンさん(仮名)とホシさん(仮名)という人がいる。
彼らはそれぞれ、ケンさんはオーストラリアに1年間、ホシさんはアメリカに3ヶ月行っていた。
ケンさんは皮ジャンとグラサンが似合い、ターミネーターというあだ名と持っている男だ。
ホシさんは女の子が三度の飯より好きというナイスガイだ。

ホシさんはソウル空港経由で日本へ帰ってきた。
ホシさんがソウル空港でぼ~としていると、前を革ジャンとグラサンを着けた無精髭の男が歩いていた。
まさかなぁ、いやしかし、と思い、迷いながらもホシさんは「ケン?」とつぶやいてみた。
なんと、目の前の男はその言葉に反応し、「ホシさん!!!!!!!」と叫んだ。二人は再会の喜びを、ひしと抱き合うことで味わった。
オーストラリアとアメリカ、北半球と南半球、それぞれ別の場所から旅立ち、お互い偶然にも日本直帰ではなくソウル経由で日本に向かっていた。偶然にも同じ日、同じ時間にソウル空港にいた。(もちろんお互い相手がいつ帰国するかなんて知らない)この偶然を奇跡ということ以外で説明できようか。いやできない(反語)
我々はこれを、ソウルの奇跡、ソウルの再会、と呼びたい。

だが奇跡はそれだけではない。
ケンさんとホシさんは飛行機も偶然同じだった。だがそれは「ソウルの奇跡」を起こした二人であらば、必然ともいえよう。
奇跡はそのあと起こった。
ホシさんは税関も越え、ひさしぶりに日本の大地を踏みしめていた。
ところが、一緒の便に乗っていたはずのケンさんが出てこない。
一時間ほど待ち、ようやくケンさんは出てきた。
なんとケンさんは髭もじゃ、革ジャングラサンという格好で、真っ白い粉である粉石鹸をペットボトルに詰めこんで持ち歩いていたのだ。
いろめきたった税関に一時間詰問されたのはいうまでもない。(靴の底までレントゲンで調べられたらしい)

ガルディーン復活とソウルの奇跡。このふたつの奇跡をさっそくバチカンの奇跡認定所に報告したいと思う。

大学時代しなければならない50のこと

大学時代というもの



早稲田大学演劇学科出身の著者の経験を素にかかれた啓発本。ここにかかれているのはおもいっきりヘンな大学生である。あまりにも変すぎるために、この姿こそが大学生の王道ではないのかと思えてしまうほどだ。そんなバカなと思いつつ、読み進めていくうちに、つい共感を覚えてしまう。大学生はもちろん、大学生じゃない方にもお薦めの本。

これが母親の最後の希望でした。ところが僕の進んだのは演劇科でした。これで世捨人としての人生は確定しました。


大学時代しなければならない50のこと
中谷 彰宏
PHP研究所 2000-12


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大学時代出会わなければならない50人
中谷 彰宏
PHP研究所 2001-07


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私は大学生活のために一人暮らしをはじめて、初めてのひとりぼっちの夜を過ごした。



次の日、本屋に行こうと思った。
蔵書が多いと聞いていた本屋だった。


そのころ私は街の地理も、その本屋の場所も全く知らなかった。
でも、私は歩き出した。目的地などどうでもよかったのかもしれない。



結果から言うと、本屋は見つかった。半日歩きまわり、もう帰ろうとしたときだった。
奇跡だった。



その本屋で何をしたのかは、いっさい憶えていない。
そもそも、何のために本屋に行こうと思ったのかさえ憶えていない。
いや、はじめから理由なんてなかったのかもしれない。
もちろん帰り道を忘れた私が家につくまでまたも半日かかったことは言うまでもない。





何故こんなくだらない私の話をするかというと、この本を読むと、このときのこと、このときの想いがよみがえってくるからだ。
あるかないかわからないような目的に向かってうろうろと一歩一歩進んでいく。
大学時代とはそのようなものではないか、そう感じさせてくれる本なのだ。

サムライカード、世界へ

日本発クレジットカード



日本の大手カード会社の中で、独自の海外展開戦略を採っているのはJCBだけらしい。他のカード会社は海外の大手カード会社VISAやマスターと提携して海外でも使用できるカードを発行しているという状況なのだ。
てっきり、カード会社なんて海外産ばかりかと思っていたのだが、どっこい日本の会社もがんばっているらしい。本書は、そのJCBの海外戦略を時系列的に書いたものだ。JCBを知るためには格好の本である。プロジェクトXのノリで読めば、さらに楽しいかも。

出発までに台湾に関する本をたくさん読み、知識は詰めこんでいったつもりだったが、現地に着いて違和感があったのは南国独特の〝臭い〟だった。活字や写真では臭いまではわからない。

サムライカード、世界へ
湯谷 昇羊
文芸春秋 2002-08


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この手のビジネス書(新書だけどね)はわりと好きである。厳しい人になると批判精神が足りないと言われそうな内容であるが、新書程度の分量では、まず“いいところ”を中心にして話を進めていった方が、良い本になる。
そもそも、この本は、大手カード会社がみなアメリカ産の中、純日本産の国際カードが活躍しているのを紹介する本だ。とにかく読んでてJCBのがんばりが良くわかるし、そのがんばり方が、いかにも日本企業のやり方という感じで好印象なのだ。
今では普通にカードを使ってしまうが、少し前まではカードを使うこと、もっと言えばカードを持つこと自体に嫌悪感があった。そういう感覚の人は案外多いような気がするのだが、どうだろう。
そういった、カード自体に不信感があるが、興味もまたある、といった人にお薦めの本。カードに親しみがわくかもしれない。もちろん、カードは取り扱いに注意するのが大人の常識ですよ。

ジョッキー

期待の若手



(過去ログ転載)
所属厩舎の窮乏をすくうため、身を引き貧乏フリー騎手となった中島八弥。八弥にまわってくる乗り馬は問題がある馬ばかり。しかし八弥は、信じるのは自分の腕一本という兄弟子糺健一の言葉を胸にターフを駆け抜ける。ある日、八弥にオウショウサンデーという素質馬への騎乗チャンスがめぐってくる。デビュー戦を勝ったオウショウサンデーの素晴らしさに八弥は感激するが、オーナー伊能の言葉に疑問を抱いてしまう。八弥の運命や如何に。

八弥はいつまでも代役だった。糺に逃げられて勝負を挑むことも出来なかった。

ジョッキー
松樹 剛史
集英社 2005-01


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第14回小説すばる新人賞受賞作。

競馬好き、それも競馬の裏側、厩舎の裏事情や人間関係などに興味がある者にはおもしろい作品だろう。
一章ごとに八弥が乗る馬が変わり、そこに競馬界の知られざるエピソードが挿入されている。競馬界に興味がある人には、興味深く、おもしろい。


本書は、八弥とその兄弟子糺との関係を素にした縦糸に、毎章ごとの問題のある馬を乗りこなす八弥のレースが横糸となっている構成になっている。
構成、登場人物ともよく考えていし、取材も十分したのだろう、競馬界のエピソードもおもしろい。
これがデビュー作であり、しかも若干24歳(25か?)ということを考えると、よく出来た作品である。

ほんとうに良く出来た作品だ。

だが、この新人の次回作を是非読みたいかというと、そこまでは思わない。
確かによく出来ていると思うが、話の本筋、糺と八弥との物語が弱いのだ。
構成はよくできている。が、それだけである。
物語に力強さがない。
読んでいて、この物語の台本が透けて見えてしまうのだ。
話がワンパターンだといっているのではない。
たとえば、ラストで主人公が過去と向き合い過去を清算するのだが、主人公がそう決心するだけの説得力がまったく感じられない。
描写力が足りない、とでもいうべきだろうか。
ここらへんは若い著者にそこまで求めるのは酷というものか。


ドラフト一位で入団した高校生ピッチャーのようなものだろうか。
一級品のスライダーを持っていて制球もよく、良素材であるが、いかんせん体の線が細くそのままではプロでは生き残れない。
もっとパワーアップして力のあるまっすぐがほしい。
これが、現在の松樹剛史への評価である。

ぜひ筋肉をつけて、よく出来ただけではなく力強い作品を読みたいものだ。

家族八景

家族のカタチ



常ならぬ者として己の正体を隠しながら生きる、超能力者七瀬。そんな彼女がお手伝いとして「普通」の家庭の中で働く。テレパスの彼女は望む望まないにかかわらず、善良に見える家族の裏を見てしまう。彼女は家族の真の姿を見、何を思うのか。孤独な七瀬のさすらいの物語。「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」と続く七瀬三部作の第一作。筒井康隆の傑作正統派SF小説。

どうぞ、いつまでもお芝居を続けてください。いつまでも家族サーカスをお続けなさい。舞台装置じみた小綺麗な尾形家を振り返ろうとせず、七瀬は門をでた。

家族八景
筒井 康隆
新潮社 1975-02


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本書は、他人の心を読みとる能力、精神感応テレパスを持った女性七瀬がお手伝いとして八軒の家を訪れる物語である。
七瀬は訪れるそれぞれの家に住む家族の心の中を見る。
そして虚飾と欺瞞に満ちた家族の姿を暴きだす。

世間体のために求められる仲の良い家族像を演じる家族たち。
自分たちのためではない、人に見せるための家族愛。
自分たちは家族なのだと確かめあわなければ生きていけない家族たち。
家族を見下しながらも、そのバカな家族の一員でありつづける者たち。
記号としての親。記号としての子。記号としての家族。

家族とは何か。人は何故このような嘘を抱えながらも家族であろうとするのか。


それほど家族というモノは魅力的なのだろうか。
本書に出てくる家族は、皆一様に愚かで醜い。
だがそんな愚かさ醜さは、どの家族も持っているのではないだろうか。
世の中には普段から憎しみあっているように見える家族から仲睦まじく見える家族までいろいろいるだろう。
でも、どんな孝行息子でも親がうっとおしいと思うときはあるし、いくら血をわけた親でも子を信じられなくなるときはある。
それでも我々はたいていの場合、“家族だから”というたったそれだけの理由で相手を許す。
たったそれだけの理由だ。家族とは何か、なんて誰も考えずに。
なぜ我々は、家族であろうとするのだろうか。
 
七瀬は家族の裏側を見る。それは残酷な行為かもしれない。
超能力者という、孤独な特権者である七瀬は欺瞞のなかに好んで生きる者達を理解できないし、彼らも七瀬という異物を理解できないからだ。

七瀬に家族の裏側を発見された“家族たち”はうろたえる。
それは家族たちが見て見ぬふりをしてきたモノだからだ。
家族といえども、親と子だろうが別の人間であることは間違いない。
別々の人間が家族というたった一言で結ばれている状態、よくよく考えてみれば家族というものは異常なのだ。
家族を成りたたせているモノはなんだろうか。
金か。たしかに真である。子が親に逆らえないのは親に養われているからだ。では家族構成員全員が生まれた瞬間から金に不自由しない身であったら家族は成立しないのだろうか。
血か。たしかに真である。これこそ説明不要なぐらいの家族成立の条件のように思える。どの国の家族概念も血のつながりから発生している。では血のみで家族のすべてを語りえるのか。我々はもうすでに血のつながりのない家族の存在を知っている。現代とは血のつながりが絶対の時代ではないからだ。血がつながっていなくても子を求める夫婦。夫婦という形態をとらず、ただ寄り添いあう人たちもいる。彼ら彼女らも家族であろう。
家族は自分たちがなぜ家族かなど知らないのだ。
それは目を向けてはいけないモノなのだ。目の前にあっても見えず、決して存在しないモノ。
ひとたびそれが現れてしまえば、底なしの暗闇に吸い込まれるように、家族は家族という空間から放り出されてしまう。


七瀬という第三者が介入することでそれまでギリギリの所で保っていた虚飾と欺瞞のバランスが崩れ、家族は崩壊してしまう。

しかし、彼らはそれが虚飾と欺瞞にまみれていたと思い知らされても、また虚飾と欺瞞の世界に帰っていくのではないか。

なぜなら彼らは孤独には生きられないからである。

彼らには真実というひとりぼっちの荒野はつらすぎるのだ。
たとえ“家族”というものが嘘でも、いや嘘だからこそ彼らは家族であり続けるのである。


そして、もともと孤独な七瀬にはどこにも帰るところがないのである。
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