物語は、原爆投下後10年を経た広島から始まる。あの惨禍から力強く復興しつつある町並み、そこに暮らす人々。それまでと同じような日常を暮らす人々。だが、だからこそか、あのことについては誰も触れない。街のいたる処に、自分自身にあの時の傷跡が深く残っているというのに。
夕凪の街の主人公皆実は、半袖の服を着ようとしない。自分の腕に残ったあの時の傷跡を見てしまうからだ。
そんな皆実は、職場の同僚と心を通わすことになる。お互いの気持ちを確かめあった瞬間、あの時の風景が甦る。建物は中の人ごと潰れ、消えることのない火が街を包む。道も川も辺り一面死体であふれ、肉親でさえ見分けのつかなくなった様相の人々がさまよい歩く。自分に何が起こったのか、何を訴えればいいのか、何一つわからない人々のうめき声で埋まる、かつて街だった土地。
その中で、父を失った。妹を失った。友を失った。あらゆるものが奪われた日が、愛す者の後ろに見えた。
たまらず皆実は駆け出すほかなかった。あの地獄の光景が甦る。なぜ、自分だけ助かったのか。自分は生きていてもいいのか。あの風景を抱えたまま幸せになることなど出来るのか。
第二編桜の国では、その後の人々、被爆二世三世が主役となる。
時は平成16年。皆実の弟旭は、一家の主として被爆者の妻とともに娘七波、息子凪生を育てた。妻が亡き後は家族三人暮らしだ。
七波は、不審な行動をとる父旭が心配で尾行をする。出かけた父が向かった先は広島だった。あの時から60年。あの時のことは時が経とうとも終わることがなかった。
すべて失った日に
引きずり戻される
おまえの住む世界は
ここではないと
誰かの声がする
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何度読んでも傑作である。傑作であるが故に語りづらいのではあるが。
私自身は被爆三世になる。だが、ずっと広島で生活していたからか、凪生のような苦しみを経験したことはない。当たり前だが、同級生に被爆三世なんてごろごろいたのだ。たいていみんな気にしていない。
ただ、それは私が広島に生まれ育ったからで、祖母の家に泊まっては、夜あの時の話を聞いた経験があるからだろう。広島長崎以外の人にとっては原爆など、遠い昔に落ちた爆弾であって、放射能という怖いものを浴びた人がいて、その子孫が今も生きている、というだけの話なのだろう。
被爆者も高齢化し、もはや亡くなっても大往生となり誰も原爆のせいだろうとは思いもしない。私が病に倒れたとしても、それは原爆の影響ではなく日頃の不摂生のせいだと周りからなじられるのが関の山だろう。でも、私が被爆三世なのは事実で、いつ死んでもおかしくない人間なのかもしれない。
もはや、もう誰もわからないのだろうと思う。過去には、自分が被爆者と知られるのを恐れて被爆者手帳を申請しない人は大勢いたが、今や医療費負担をしてくれる手帳を誰もがほしがり、あいつは被爆してないのに手帳を持っているなどの陰口が流れる。あの日を生き残り、その後も幸福にも長寿を得た今、あの時の記憶を抱えたまま、変わらない日常を送らねばならない。
認定被爆者の基準についての裁判が進行中であるが、あれも金が欲しいのではなく、あの時受けた衝撃を、心の穴を、何かによって埋めたいのだと思う。
市内を本通りなどを歩くとき、思うのだ。ほんの昔ここは地獄だったのだと。自分の足下には幾重もの死体が埋まっているのだと。
だが、思うだけだ。すぐに変わらない日常のもと歩き出す。
原爆は語りづらい。
8月6日付けの記事なのに他に言うことはないんですか?
というお叱りのコメントでした。
私が原爆を語りづらいのは、「原爆の日」自体を他者への攻撃材料にしてしまう人がいるからだ。
もはや被爆者ですら、あの時の記憶を傷を思いを、どうにも出来なくなっているのだと思う。あの時の光景を抱えたまま、生き続け子を為し、育て親としての仕事を終えた後、ふと振り返ってみると原点にあの時の光景がある。その気持ちは、本人でない私にはとうていわからない。あの時の光景を幼い私に語る祖母の目を、私は忘れることは出来ないだろう。
そういった、原爆に対してどうにもならない気持ちが、平和記念資料館やはだしのゲンに代表される直球の表現ではなく、複雑なそれでいて深い傷として表現した本作に共感できた理由だろう。
もう少しすれば、あの光景を目に焼き付けた人たちはいなくなる。その子どもたちである私が、何をすればいいのか未だにわからないけれども、祖母たちのように生き続けていかねばならないだろう。この夕凪の街で。