リンク先にて
京極夏彦さんの「姑獲鳥の夏」のトリックに「アホかー!」と本を壁に投げつけた人は大勢いるでしょう
との記述を見て、あーそうなのかぁ、とデスクトップ前でうなってしまった。
いや、この作品大好きで大学時代に出会ったときの衝撃はいまだに忘れられない。寝る前にちょっとだけ読むつもりが止まらなくなり朝まで読み続けそれでも読み終わらなかったので、朝一の講義中まで読み続けてようやく読了した作品だった。それまで読書というものをあまりしてこなかった私にとっては、一晩中読み続けた本というのは衝撃的でした。
読みはじめた当初は、この蘊蓄すげーおもしろいんだけど、いつになったら本編始まるんだろうと思っていましたが、最後まで読みすすめて最初の蘊蓄自体が物語を構成する骨子になっていたのだと気づいて、やられました。最初の蘊蓄語り自体がトリックだったのだなと、読み終えて講義中の机に突っ伏して眠りながら幸せな読後感に包まれたものでした。
その後、少しずつ本を読むようになり、ミステリ作品も読みました。ミステリは得意なジャンルではないのであまり読んでいませんが。それで、京極さんの作品は「ミステリ好きを自認する人」にとってはあまり評価されていない作品なのかなぁと頭の中でぼんやりとは考えていました。いましたが、自分の好きなものっていうのは盲信するんでしょうね、心の根っこのところでこの作品は誰でもおもしろいと思っている、という根拠のない思いこみをしていました。そのことをリンク先の記述を見たときに自覚したんですね。盲信してるものってのは普段意識のうえにはのぼってこず、無意識の中にひそんでいるのでしょう。それは、外部の具体的な形を持ったものを見たとき、意識のうえの理性的な考え方と無意識からのぼってくる感情のズレによって自覚させられます。
私は自分のことを一歩引いた視線で物事を見てる人間だと思っていたけど、その実自分の好きなもの信じているものにはとことんあまいのだ。なんてことを考えてしまいました。
余談、とか書こうとしたんだけど眠いので暇なときに書きます。(たぶん書かない)
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