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家族八景

家族のカタチ



常ならぬ者として己の正体を隠しながら生きる、超能力者七瀬。そんな彼女がお手伝いとして「普通」の家庭の中で働く。テレパスの彼女は望む望まないにかかわらず、善良に見える家族の裏を見てしまう。彼女は家族の真の姿を見、何を思うのか。孤独な七瀬のさすらいの物語。「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」と続く七瀬三部作の第一作。筒井康隆の傑作正統派SF小説。

どうぞ、いつまでもお芝居を続けてください。いつまでも家族サーカスをお続けなさい。舞台装置じみた小綺麗な尾形家を振り返ろうとせず、七瀬は門をでた。

家族八景
筒井 康隆
新潮社 1975-02


by G-Tools

本書は、他人の心を読みとる能力、精神感応テレパスを持った女性七瀬がお手伝いとして八軒の家を訪れる物語である。
七瀬は訪れるそれぞれの家に住む家族の心の中を見る。
そして虚飾と欺瞞に満ちた家族の姿を暴きだす。

世間体のために求められる仲の良い家族像を演じる家族たち。
自分たちのためではない、人に見せるための家族愛。
自分たちは家族なのだと確かめあわなければ生きていけない家族たち。
家族を見下しながらも、そのバカな家族の一員でありつづける者たち。
記号としての親。記号としての子。記号としての家族。

家族とは何か。人は何故このような嘘を抱えながらも家族であろうとするのか。


それほど家族というモノは魅力的なのだろうか。
本書に出てくる家族は、皆一様に愚かで醜い。
だがそんな愚かさ醜さは、どの家族も持っているのではないだろうか。
世の中には普段から憎しみあっているように見える家族から仲睦まじく見える家族までいろいろいるだろう。
でも、どんな孝行息子でも親がうっとおしいと思うときはあるし、いくら血をわけた親でも子を信じられなくなるときはある。
それでも我々はたいていの場合、“家族だから”というたったそれだけの理由で相手を許す。
たったそれだけの理由だ。家族とは何か、なんて誰も考えずに。
なぜ我々は、家族であろうとするのだろうか。
 
七瀬は家族の裏側を見る。それは残酷な行為かもしれない。
超能力者という、孤独な特権者である七瀬は欺瞞のなかに好んで生きる者達を理解できないし、彼らも七瀬という異物を理解できないからだ。

七瀬に家族の裏側を発見された“家族たち”はうろたえる。
それは家族たちが見て見ぬふりをしてきたモノだからだ。
家族といえども、親と子だろうが別の人間であることは間違いない。
別々の人間が家族というたった一言で結ばれている状態、よくよく考えてみれば家族というものは異常なのだ。
家族を成りたたせているモノはなんだろうか。
金か。たしかに真である。子が親に逆らえないのは親に養われているからだ。では家族構成員全員が生まれた瞬間から金に不自由しない身であったら家族は成立しないのだろうか。
血か。たしかに真である。これこそ説明不要なぐらいの家族成立の条件のように思える。どの国の家族概念も血のつながりから発生している。では血のみで家族のすべてを語りえるのか。我々はもうすでに血のつながりのない家族の存在を知っている。現代とは血のつながりが絶対の時代ではないからだ。血がつながっていなくても子を求める夫婦。夫婦という形態をとらず、ただ寄り添いあう人たちもいる。彼ら彼女らも家族であろう。
家族は自分たちがなぜ家族かなど知らないのだ。
それは目を向けてはいけないモノなのだ。目の前にあっても見えず、決して存在しないモノ。
ひとたびそれが現れてしまえば、底なしの暗闇に吸い込まれるように、家族は家族という空間から放り出されてしまう。


七瀬という第三者が介入することでそれまでギリギリの所で保っていた虚飾と欺瞞のバランスが崩れ、家族は崩壊してしまう。

しかし、彼らはそれが虚飾と欺瞞にまみれていたと思い知らされても、また虚飾と欺瞞の世界に帰っていくのではないか。

なぜなら彼らは孤独には生きられないからである。

彼らには真実というひとりぼっちの荒野はつらすぎるのだ。
たとえ“家族”というものが嘘でも、いや嘘だからこそ彼らは家族であり続けるのである。


そして、もともと孤独な七瀬にはどこにも帰るところがないのである。
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