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禅僧の生死

人としていかに生きるか、そしていかに死ぬか。日本の禅宗を隆盛へと導いた13世紀の円爾から、16世紀に伽藍を多く復興し禅の道場として活用した太原まで、23人の高僧の死生観を通して人生を考える名著。
「MARC」データベースより

自分と他者

つまり死ぬことの自由は当人によって得られるが、その自由の許される一面に、自の及ばない他のあることを知らなくてはならない。

今も忘れられない話がある。ある禅の老師の話だった。
ある日、夫が交通事故で逝ってしまった奥さんがお寺に来た。しかも夫が事故の加害者なため、莫大なお金を被害者に支払うことになる。夫との子はまだ乳飲み子だった。奥さんはただぼうぜんと本堂に座っておられたという。

我が家の宗派は広島ではポピュラーな安芸門徒であり、んでもってうちは寺とは仲が悪かったりする家だったりするので、だいたいに坊主は嫌いなのだけど、この話にははっとさせられた。
どうしようもない現実(しかも他人の)が目の前に現れたとき、人にいったい何ができるのか。
「子どもさんのためにもがんばらないといけない」「あの世のだんなさんは、あなたの幸せを祈っている」「人生きっといいことがある」このような言葉は、相手に届くだろうか。どうしようもない現実のただ中にいる人と、どこまでいっても第三者でしかない者との溝は深い。自分が老僧の立場だったらどうだろう。上記のセリフをつい言ってしまいそうな気がする。でもそれは相手のためだろうか。この言葉なら相手に届くと思っての発言なのだろうか。
それは結局、相手のための言葉ではなく自分のための発言なのだろう。自分が善意の第三者であることを確認するための発言にしかならない。その偽善性に気づいたとしても、結局自分の無力さの前に押し黙るしかできないだろう。
ただの一般人なら、それでもいいかもしれない。だが、僧侶という立場はそれをゆるさないだろう。僧侶という立場自体は、どうしようもない現実の中にいる人に対して、まったくの無力なのにだ。

傷ついた経験というものは、同じ経験をした者にしかわからない。相談事とか、深刻な話とかで最後の方になって出てくる文句だ。学生時代のいじめとか、リストカットの後とか見せられると、そりゃみんなだまる。
確かにそうだろう、と思う。でも、話はそれで終わりじゃないだろう、とも思う。
それじゃあ、傷ついた経験を持つ者は、明らかに自分より深刻な経験を持つ者に対して、どう言葉を発するのか。どういった言葉を届けるのか。
自分の経験というのはものすごく個人的なことなのだ。あたりまえだけど。
自分の経験(ここでは自分の心、気持ちに言い換え可能だな)を絶対視するのは、自分の心の平穏のためには必要なのかもしれないが、残念ながら人は自分一人だけで生きているのではなく、自分と同じように自分だけの経験を持つ他者と生きている。
傷ついた経験というものは、同じ経験をした者にしかわからない。っていうのは終着点ではない。だいたいに終わりだと思っているものは終わりではない。そこからが思考のスタートなのだ。

言葉を届けるという行為は、不毛で無力感を感じる行いだ。でも、不毛と無力感に押しつぶされながらも言葉を届けようとする人、届けるべきだと信ずる人というのはいて。そして、たいてい言葉は届かず、残るのは不毛と無力感だけなんてことになる。そういった経験は傷ついた経験ではないのかな。違うけどわかってほしいもののような気がする。

てなことは、冒頭に挙げた本書の内容とはあまり関係がない。
本書は題名通り禅僧の生死を著述したものだ。内容についてはふれない。禅僧、というより人の生死など当方には語ることができない。そんな能力は当方に備わっていない。
だが、人というのは、何の縁か人の生死について向きあわねばならぬ時がある。自分の手に余る問題に向きあうなど、思い上がりもはなはだしいのだろうが、人というのはいつかそんな時がやってくるのだろうと思っている。
こういう本を読むのは、いや本を読むという行為自体が、その時に対する備えなのかもしれない。

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