論理というものは非常にわかりづらい。小難しいことが論理なわけではない。専門用語をいっぱい会話の中で使う人、難しく難しく話す人が論理をちゃんと会得した人とは限らない。
一神教において魔術は排撃すべきものだ。
なぜなら魔術とは神を使役する技術で、一神教の神が行う奇跡とはまったく異なるものだからだ。奇跡とは預言者が行うものではなく、預言者を通じてすべてのものの創造者、ただ一人の神が行うものを奇跡、それに対して魔術とは、人が神を呪文や儀式等の技術で神を従わせ、人事では起こりえない現象を生じさせるのを魔術という。
奇跡は神のみが行えることであるが、魔術はそうではない。そして神をすべての創造主として仰ぐ一神教では神を従わせる技術など、存在自体が涜神だ。
では、その絶対的な神と対峙し、神の意志を変えねばならぬ時はどうすればいいのか。
論理である。
ユダヤ教の神は人格神であるといわれている。
一神教において神秘はすべて神のものであり神秘により神の意志を変えることはできない。しかし論理による論争によって神を論破し、神の意志を変えることは可能である。
有名な十戒のシーン。このとき神はイスラエルの民を皆殺しにしようとする。イスラエルの民が神との契約を守らず、偶像を作り、それを神として崇めたからだ。イスラエルの民を皆殺しにするわけにいかないモーゼは、神との論争に挑む。ここで、モーゼはあれやこれやとがんばって神を論破し説得した。イスラエルの民はモーゼの論理によって救われたのだ。
魔術という非合理は認めないが、論理という合理は認めるというのが一神教の世界観である。
というのが論理の効用であるが、どうだろうなぁ。
我々の社会において言葉は論理であるってのが成立する世界ってすごく限られている。
対話するときにはきだす言葉には、字面以上の意味が込められている場合がある。つーか、ほとんどか。
だいたいに、私の言葉にはこれだけのバックボーンがありますよ、わかりますか?うんうん、良くわかるーっていう表面に出ないやりとりができなければ、会話する価値がないっていう空気あるし。
言葉の裏にあるものをやりとりすることで構築する人間関係。これが成立してしまう世界ってのは、神を論破してしまう一神教の世界観とは相容れないのではなかろうか。だいたいに神を論破するって意味が理解できないかも。
言葉の裏を大事にする世界では、神を論破したら人間が神より上位になってしまうのではないか?神を使役できないという理由で魔術を禁止しておきながら、神を論破するのは理解できないという反応が考えられる。がしかし、神を論破するというのは、神の存在を否定することではない。神の存在そのものへの論争ってのなら別だけど。
モーセと神は、契約を破ったイスラエルの民を皆殺しにするべきか、というテーマについて論争していたのだ。
ここでモーセが勝ったとしても、それはこのテーマにおいてモーセの論理の方が有効であると仮定されただけであって、神の人格や神の存在自体を否定したわけではない。論理とその発言者は明確に区別すべしというのが一神教の世界。
それに対して、我々の世界の言語ってのは祝詞であるわけだ。
神道というか、それに付随する伝統宗教において、荒魂(または悪霊とか御霊)を鎮めるってのが重要なことで、鎮めるにはどうするかというと敬い遠ざけるのね。偉い人は遠い人だから。だからひたすら相手を祈り祝う。
そうやって祭り上げて、自分とは違う処に相手を置いてしまうわけだ。
字面だけ見ると、相手を祝っているんだけど、実は相手を遠ざけようとしている。言葉の裏って大事だよね。
そういう社会において、言葉の論理を信じる人ってのは不遇をかこっているだろうなぁ、とはよけいなお世話。
結局、いわゆるモヒカン族は、こういった社会において最後の狼煙をあげるために砦にこもったのだろうな。
砦の場所が、言葉をキーワードとして定義でぎるはてなだというのも当然といったところか。論争というのはある程度言葉の定義を相手も共有していると思わなきゃ論争なんてできない。その前提条件を見誤るとishinaoさんのように途方にくれることになる。
いわゆるモヒカン族に勝利なんてものがあるとして、それはモヒカン族キーワードが砦の外に広まることだろう。裏を読ませない言葉(キーワード)を共有することで、とりあえずは彼らの仮想敵と論争が可能になるからだ。
いわゆるモヒカン族に恋?をしている日日ノ日キは、すでにモヒカン族キーワードを取り入れていて、さすがに熱狂的支持者であるなと思う。
ま、日本の社会において論理がまったく無駄というわけではない。
本書の最終章においてくわしく述べられているが、幕末の崎門の学である。崎門の学は幕府の御用学問朱子学から生まれた学派であるが、幕末において日本の正式な君主は幕府ではなく天皇であるという論理をうちたてた。この論理を信じ、実践した人々が先達となり明治維新という時代の転換期が訪れることになるのである。
崎門の学の論理がなければ、幕府を倒しても良いなんて考えは当時の人々には浮かばなかっただろう。民主主義に基づく革命思想により王侯貴族をギロチンにかけても良いとしたフランス革命を見るようではないか。
論理というものに興味があるなら、論理紹介本として良書なのでご一読を。
TrackBack URL for this entry : http://taigo.blog1.fc2.com/tb.php/124-245c09d5