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コメント欄

コメント欄続きの話。

たいていのレンタルブログサービスではコメント機能とトラックバック機能がついているところから考えるに、コメント欄とトラックバック機能はブログにとっては重要なことらしい。

ま、コメント欄については昔はゲストブックや掲示板として設置していたものがひとつひとつの記事に付随するようになっただけなので理解は簡単にできたが、トラックバックについては当初何に使うのかよくわからなかった。いまだによくわからない。

色々なサイトをまわってみると、記事主のエントリーにお友達と思える人がどっと書き込みがあり、もう元記事と関係ない話になっていたりと盛りあがっているところがある。トラックバック欄を見るとそういうお友達やら検索トラックバックやら盛りだくさんだ。なるほど、これが一番うまい使い方かもしれんな、と感心したことがある。もっとも私はその使い方には魅力を感じなかったので、コメント欄とトラックバックに関しては閉じてもいいなとの結論に達する手助けになっただけだが。

そういう人との交流を楽しむ目的でコメント欄を解放しているのは簡単に理解できるのだが、気合いの入った良記事を書くブログのコメント欄が開いているのはよく理解できない。気合いの入ったエントリーがおもしろ記事で、大喜利を期待しているというのならわかるのだが、言論系のブログだったりするのでさっぱりだ。たまに良いコメントがつくのかもしれないが、たいていは反対・賛成にかかわらずつまらないコメントがつく。良い記事を書ける、というのは才能なので、それで才能というのは希少だからこそ価値があるのであり、その希少な良エントリーに多数の才能を持ちえない人がむらがるのは少し考えればわかる事ではないのだろうか、と思ってしまう。

そこら辺は私には理解できない価値観があるのだろうけど。ただ、なんでこの人コメント欄なんて開いているのかな、と思うことはある。

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自由

【無断リンク】と【はてブ】と【コメント欄】と【トラックバック】

私がここのコメント欄とトラックバックを閉じているのはリンク先に書かれていることが理由だったりする。

どうせ身辺雑記だから、ブログがどうのこうのとか関係なく自分の価値判断で運営している。
私は自由という宗教的価値観をある程度信奉している。ま、ある程度という言葉でお茶を濁しているので自明なわけだが、家に仏壇があり、正月には神社で御神酒をよばれ、クリスマスにはじんぐるべーるとケーキを食べる多信心ものなので熱狂的信者というわけでないのが情けないところ。
情けないが一応信じているのだから、自分の自由も他者の自由もできるだけ尊重したい。だから自分にとっては困った自体でも大上段にルールを設置するのではなく個別に対応するしかないな、と思っている。あんま困った自体に対面したことはないが。ないが、困った自体になったとき応対するのが面倒だなー、想像するだけで気が重い → コメント欄なんて閉じてしまえ、ということで閉じてる。それと、どうせ私の書くものに反応なんて起こらないし、てのもある。

それでも、万が一、私の書くものがを目にしてしまって、なんだこれはと一言文句を言いたくなった場合は。まあ、あきらめてください。

名もなき毒

名もなき毒 名もなき毒
宮部 みゆき (2006/08)
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邪魅の雫 邪魅の雫
京極 夏彦 (2006/09/27)
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立て続けに毒が関わった話を読む。

宮部みゆきさんの方は誰か Somebody と同シリーズであり、途中で関連した話もちょっと出てくる。
宮部みゆきが好きなのは、自分が大作家だという自覚が有るところかもしれない。理由なき犯罪。根拠なき悪意。殺人事件などの凶悪犯罪は昔と比べて明らかに減っている。だが、現代は治安が悪くなり安心できない時代らしい。その感覚の源泉は、(他者から見たら)理由がわからない犯罪が注目されるからだろう。
14歳の子が幼き子を殺害し、学校にその首を晒す。被害者から見ればまったく身に覚えのないのに、憎まれ襲われる。そんな事件が起こるたびにメディアは煽って取りあげ、その異常性におびえる。
男女間の痴情のもつれ。金目的。怨恨。もっとわかりやすい、他者から見ても納得できる理由があればそこまで恐ろしく思わないのだろう。
犯罪という不条理なことを犯すにはそれだけの理由があるはずだ。それだけの理由がない私などは犯罪を起こさない。なのに理由なき犯罪なんてものが存在する。恐ろしい。

そんな社会の不安を、精力的に取りあげる、取りあげなければならないという気概を持ち、ただ行動する人が好きなのだろう。現代においては、そんな縛り気にしなけりゃいいのにね、とは思うが、そこらへんは作家の性ってやつで。安全な道と困難な道であれば困難な道を!みたいな異常性ぐらいないと傑作というのは書けないのかも。

猫殺し

そういや、作家の坂東眞砂子さんが子猫を殺したということで話題になったようで。ずいぶん前の話ではありますが。
近所の年寄りなんかの話だと、昔はよく生まれたばかりの子犬子猫をさっさと殺したらしい。川とかに投げ込んで。数が増えすぎるとひとつの家で飼えないからね。もっとも今は、昔はぽいぽいっと川へ投げ込んでいた年寄りもそんなことはとうていしなくなった。ま、全員が全員やっていないとは言い難いが。時代の空気が変わったからだろうな。で、片方では昔の猫殺しを平然と語り、一方ではテレビから流れる命は尊いという物語に心の底から感動する。ま、そんなもんだろうと思う。猫が増えすぎて困る → じゃあ殺してしまおう、ってのが猫が増えすぎて困る → 殺すのは心的抵抗が大きくなった(周りの目もあるし) → そこら辺に放してしまおうか、動物愛護センターかな、に変わったぐらいのことだろう。
普通の人は空気を読んで、行動を変えるだけで、その事象自体を語ることなんてしない。猫を殺すことの是非と命の問題なんてものは、まず普通は語らない。必要に迫られて殺す人は、殺している事自体を表に出さないか、聞かれないと言わないだけだろう。猫を殺す事の是非なんてことは、まず語らない。ただ殺すだけだ。
そこら辺の話は、まあ言わなくてもわかるよね、って領域のものだろうな。言葉にはされないけど共有されるもの。それをわざわざ言葉にするのは特殊な人だけだ。
で、坂東眞砂子さんは、その特殊な人である作家だったわけだ。だからまあ、彼女の行為が非難されるべきものなのは当然だし、非難されること自体はどうとも思わんけど、反応として適切なのはxx-internetさんのかも。
もっとも、坂東眞砂子さんの子猫殺し問題:雑感を読んで気づいたのだけど、私は坂東眞砂子さんの本を読んだことがない。狗神か桃色浄土でも読んでみようかな。ホラー苦手なんだよね。

朝がつらい

京極夏彦さんの本はやっぱり厚い。学生時代なら徹夜して読むのだけど。勤め人としては3時が限界。あぁ、落ちぶれたなぁ。

http://books.yahoo.co.jp/interview/detail/31775078/01.html