はてな 座禅をしていて「悟る」事と幽体離脱をする事、または死ぬ事との違いって何ですか。座禅をしていてあるところまで行き着くと体から抜ける感覚とかに似ていたりします。死ぬ感覚もこういうものなんじゃないかなぁと思い質問してみました。まじめな質問ですのでちゃんとした回答をお願いします。
という質問。 んで、いわしでid:pasosaviが
この方の求めていた回答は、 最後の方の回答にあるような、 ヒンズー教的神秘主義にあろうかと
と書いているのをみて、はーそうなんだとなぜか納得してしまった。
禅に限らずだけど、荒行の末の超越的感覚を何かの悟りだと信じてしまうというのは良くあることなのだろう。まあ、そういう感覚がダメというわけではないのだけど。山伏修行とか、荒行によって得ることが出来る感覚というのは、そりゃ無意味だとは思わない。が、たとえばクスリを使えばどうなのか。
違法だろうが何だろうが、覚醒剤等々のクスリを使えば超越的感覚など容易に得られる。クスリによる幻覚作用は、古来より宗教儀式に用いられたものだし。
もし、坐禅によって得られた超越的感覚が悟りなのだとしたら、その悟りはクスリによって得られるものとどう違うのか。そこらへん、仏教はもう少し慎重に考えていると思う。
当方、臨済禅しか経験がないので、曹洞禅ではどういう指導をしているかは知らないのだが、臨済禅では公案を使って修行者があやまった道へ進んでいないかのチェックを行う。
禅にふれる前には、曹洞宗の只管打坐という姿勢が清々しく感じられて、臨済宗の公案は何か真理とは遠い不純なもののように感じていたのだが、実際経験してみると臨済宗のシステムは合理的なのかもしれないな、と思い至った。というのも、坐禅を長時間すればとうぜんながら足はパンパン、肉体的にも限界が来てくたくたになる。人間の脳というのは、ある限界をつっきると脳内麻薬を発生させるので、そういう状態では何か不思議な感覚になれる。坐禅のつらさをつきぬけたときに得られる感覚であるので、自分としても特別なものと思いたい心理があり、これを特別視してしまう気持ちは当然なのだろう。
だが、それが真理なら、真理とはムリにつらい坐禅などやらなくてもクスリでもやれば容易に得られてしまう。マゾヒストならその容易さは唾棄すべきものなのかもしれないが。
宗教の教義として、超越的感覚を真理とするのは上等ではない。他のもので容易に到達できるものを真理としては、底が浅いと思われるからだ。だから、超越的感覚は真理でないとチェックできる公案は、宗教の教義の補強として修行のシステムとして優れている。まあ、公案なんぞ一回も解いたことがないのでえらそうなことを言っても説得力も何もないが。