スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ショックだ

杉浦日向子さん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/0725/001.html

最近確かに見かけないなとは思っていたんだ。
しかし、46歳で。

なんなんだろうなぁ。
ショックだ。
スポンサーサイト

ゲーム三昧なのか

  • 信長の野望 革新(PC)
  • パワフルプロ野球12(PS2)

を買った

  • テイルズ・オブ・リバース(PS2)
  • 天外魔境2(PS2)

を同日人から借りた。

どうするつもりなんだろうね、自分。

どうでもいい話なんだけど

【理由】より長く引用

作り話は波及して周囲に共鳴者を生み、また別のストーリーへとふくらんでゆく。その結果、そこに居もしなかった人間が居ることになり、交わされもしなかった会話が交わされる。ゲートを閉め、外の町から居住空間を切り離し、自分たちの望む雰囲気と環境だけを大切に、そしてかたくなに守り支えているつもりでも、幻影には勝つことができない。幻影を追い出すことはできない。石田直澄と二〇二五号室の中年女性に関する目撃証言の大半は、この種の幻影だった。しかし、それらの証言が語られた瞬間には、語り手にとってはそれが真実だったのだ。(中略)こうして幽霊が歩き回ることになる。

いわゆるブロガーと呼ばれる(自認している)人たちの気質というのは、何かしらの本来自分には関係ないトピックス(理由の場合は荒川一家四人殺し)に場合によっては作り話をこしらえてでも参加しようする人たちと近いのではないか。更新がしやすくトラックバック機能を装備していることが多いブログサービスの普及により、“ブロガー”という事件へ言及することの大義名分を手に入れた人たちによって、今まで近所で起こった大事件なんていう、ごくごくたまにしか起こりえなかったトピックスへの参加が、ブログ上では容易になったのだろう。(おそらく容易になったのは精神的障壁を乗り越えることが)

べつだんそのことが悪いとは思わないが、自分が話しているお話が、自分でも真実と信じ切っている作り話ではないかという自省は常に必要だ。そうでないと幽霊が歩き回る事態になるだろう。

と、書評などという、本来自分とは縁遠い作家や作品のことにあれこれ難癖つけている自分を自省して思う。

理由

事件の周辺と家族

いまさらだけど宮部みゆきの【理由】を読んだ。
これは、超高層マンションで起こった凄惨な殺人事件をノンフィクションの手法で追いかけていく形の作品になっている。

ここでは従来のミステリのように、作品の核である事件そのものを扱っているわけではない。むしろ、事件の周囲に重点をおいている。事件に関わった者たちへのインタビュー形式で話は進み、周囲からみた風景として核である事件がだんだんと理解できる仕掛けになっている。
作中でも語られているが、事件は当事者だけではなく、その周囲へも影響を与えてしまうこと。これが作家宮部みゆきの視点なのだ。

事件が起こった部屋の隣に住む家族や、事件が起こったマンションの管理人家族、事件の直接の当事者ではないけれど事件を引き起こす要因となった家族の事情、また重要参考人とされて逃げ回っていた男と関わってしまった家族など、旧来のミステリ(ミステリだけのことではないが)では、ただ一証言を得るための役柄でしかなかった周囲が事細かにリアリティを持って書き込まれている。
“事件”はそれだけで完結するものではなく、“事件”とその周囲に多大な影響を及ぼしながら拡大していくものなのだ。
この視点は、その後の大作【模倣犯】につながっていくことになる。

また、この作品のもうひとつのテーマは“家族”だ。
事件の周囲を丹念に書くことで、周囲に存在する多種多様な家族を書いている。
結末で、殺された“家族”の正体がわかったとき、読者は必ず家族とは何だろうかと考えるだろう。その時浮かんでくるのは、事件の周辺に存在した在り方も関わり方もそれぞれに違う家族のことだ。宮部みゆきは、多くの“家族”を書くことで、読者に家族について深く考えさせ、そして容易には答えを出させないようにしている。

良書であった。

参考

家族八景amazonへのリンク

なつかしい

青空文庫のテキストを使って製本してみる
そういや、これと同じことをしている知人がいました。
そやつは、クリーム色の上等な紙まで用意して、なにか良い雰囲気のあるのを作りだしてたよ。
何のソフトを使ってたんだっけ?

橋本真也逝く

http://www.nikkansports.com/ns/battle/f-bt-tp0-050711-0015.html

結局、生で橋本真也を見ることはなかった。
一度リングアウトで見たかった。
合掌。

論理の方法

言葉は論理である。(by呉智英ロゴスの名はロゴス

論理というものは非常にわかりづらい。小難しいことが論理なわけではない。専門用語をいっぱい会話の中で使う人、難しく難しく話す人が論理をちゃんと会得した人とは限らない。

一神教において魔術は排撃すべきものだ。
なぜなら魔術とは神を使役する技術で、一神教の神が行う奇跡とはまったく異なるものだからだ。奇跡とは預言者が行うものではなく、預言者を通じてすべてのものの創造者、ただ一人の神が行うものを奇跡、それに対して魔術とは、人が神を呪文や儀式等の技術で神を従わせ、人事では起こりえない現象を生じさせるのを魔術という。
奇跡は神のみが行えることであるが、魔術はそうではない。そして神をすべての創造主として仰ぐ一神教では神を従わせる技術など、存在自体が涜神だ。

では、その絶対的な神と対峙し、神の意志を変えねばならぬ時はどうすればいいのか。
論理である。

ユダヤ教の神は人格神であるといわれている。
一神教において神秘はすべて神のものであり神秘により神の意志を変えることはできない。しかし論理による論争によって神を論破し、神の意志を変えることは可能である。

有名な十戒のシーン。このとき神はイスラエルの民を皆殺しにしようとする。イスラエルの民が神との契約を守らず、偶像を作り、それを神として崇めたからだ。イスラエルの民を皆殺しにするわけにいかないモーゼは、神との論争に挑む。ここで、モーゼはあれやこれやとがんばって神を論破し説得した。イスラエルの民はモーゼの論理によって救われたのだ。

魔術という非合理は認めないが、論理という合理は認めるというのが一神教の世界観である。

というのが論理の効用であるが、どうだろうなぁ。
我々の社会において言葉は論理であるってのが成立する世界ってすごく限られている。
対話するときにはきだす言葉には、字面以上の意味が込められている場合がある。つーか、ほとんどか。
だいたいに、私の言葉にはこれだけのバックボーンがありますよ、わかりますか?うんうん、良くわかるーっていう表面に出ないやりとりができなければ、会話する価値がないっていう空気あるし。
言葉の裏にあるものをやりとりすることで構築する人間関係。これが成立してしまう世界ってのは、神を論破してしまう一神教の世界観とは相容れないのではなかろうか。だいたいに神を論破するって意味が理解できないかも。
言葉の裏を大事にする世界では、神を論破したら人間が神より上位になってしまうのではないか?神を使役できないという理由で魔術を禁止しておきながら、神を論破するのは理解できないという反応が考えられる。がしかし、神を論破するというのは、神の存在を否定することではない。神の存在そのものへの論争ってのなら別だけど。
モーセと神は、契約を破ったイスラエルの民を皆殺しにするべきか、というテーマについて論争していたのだ。
ここでモーセが勝ったとしても、それはこのテーマにおいてモーセの論理の方が有効であると仮定されただけであって、神の人格や神の存在自体を否定したわけではない。論理とその発言者は明確に区別すべしというのが一神教の世界。
それに対して、我々の世界の言語ってのは祝詞であるわけだ。
神道というか、それに付随する伝統宗教において、荒魂(または悪霊とか御霊)を鎮めるってのが重要なことで、鎮めるにはどうするかというと敬い遠ざけるのね。偉い人は遠い人だから。だからひたすら相手を祈り祝う。
そうやって祭り上げて、自分とは違う処に相手を置いてしまうわけだ。
字面だけ見ると、相手を祝っているんだけど、実は相手を遠ざけようとしている。言葉の裏って大事だよね。

そういう社会において、言葉の論理を信じる人ってのは不遇をかこっているだろうなぁ、とはよけいなお世話。
結局、いわゆるモヒカン族は、こういった社会において最後の狼煙をあげるために砦にこもったのだろうな。
砦の場所が、言葉をキーワードとして定義でぎるはてなだというのも当然といったところか。論争というのはある程度言葉の定義を相手も共有していると思わなきゃ論争なんてできない。その前提条件を見誤るとishinaoさんのように途方にくれることになる。
いわゆるモヒカン族に勝利なんてものがあるとして、それはモヒカン族キーワードが砦の外に広まることだろう。裏を読ませない言葉(キーワード)を共有することで、とりあえずは彼らの仮想敵と論争が可能になるからだ。 いわゆるモヒカン族に恋?をしている日日ノ日キは、すでにモヒカン族キーワードを取り入れていて、さすがに熱狂的支持者であるなと思う。

ま、日本の社会において論理がまったく無駄というわけではない。
本書の最終章においてくわしく述べられているが、幕末の崎門の学である。崎門の学は幕府の御用学問朱子学から生まれた学派であるが、幕末において日本の正式な君主は幕府ではなく天皇であるという論理をうちたてた。この論理を信じ、実践した人々が先達となり明治維新という時代の転換期が訪れることになるのである。
崎門の学の論理がなければ、幕府を倒しても良いなんて考えは当時の人々には浮かばなかっただろう。民主主義に基づく革命思想により王侯貴族をギロチンにかけても良いとしたフランス革命を見るようではないか。

論理というものに興味があるなら、論理紹介本として良書なのでご一読を。

参考

数学嫌いな人のための数学―数学原論 ちゃんと話すための敬語の本

今年の夏休みの予定

えいがをいっぱいみにいこうとおもいます。

一人で・・・
点がみっつ連接しているのは情緒がないから却下

横山秀夫のD県警シリーズ。似顔絵婦警平野瑞穂が主人公の物語。
横山秀夫のD県警シリーズの良さについては語り尽くされているので語る必要はないでしょう。

この作品仲間由紀恵でTVシリーズが作られてます。(当方はちょっとしか見たことがありませんが)
んですので、この作品を読むときは主人公の瑞穂のビジュアルを仲間由紀恵で固定すると良。
拳銃が苦手で射撃訓練がぼろぼろで、男性警官にまあ誤射だけには気をつけろよとからかわれて、その言葉とともに射撃から逃げることができてつい微笑んでしまう姿や、それを大先輩の女性警察官にとがめられてへこむ姿が、仲間由紀恵だと思うといいっしょ。

つーわけで脳内妄想力が強い人は萌え小説としても楽しめる本格警察組織小説【顔】はおすすめです。

雑感

ここ数日、ぶらぶらしてた時のことをつらつらと

キモイ外伝 電波男を表紙を変えて売っちゃおう

電波男良かったです。後日ちゃんとした評を書きたいな。
本の目的に対して表紙があってないと感じていたら、表紙を変えて売り出すとのこと。さすが。

ヒストリー・オブ・バイオレンス

この評を見て、宇宙戦争見に行くと決めたのにまだ行ってない。。。
明日こそは仕事をかたづけよう。
ちなみに次はテロ映画らしいね

経済学がこの世から消えたら…

すごい!経済学はかじっただけなんで、完全に中身が理解できないのがくやしい。でもおもしろいぞ。

マリみて新刊のあとがきについて

まあ、聖地巡礼と称してやんごとなき学校の近くへ行って写真とるオタクがいるのはかんべんしてほしいってのがあるとは思うが。

同人のネタになる作品書いてる人がオタクマインドや同人マインドの持ち主かっていうと、それはまた別の話でということでしょう。
マンガ夜話で、島本和彦の回にオタキングが島本の同人誌を紹介してたけど、山田五郎がプロが同人書くなよ~って嘆いてた。編集者と作家のせめぎ合いから生まれる“ちゃんとした”作品が読みたいよ、というような意見(記憶が定かでないので当方の偏見が混じってるのは確実)で、そりゃそうだよなと思った記憶がある。

ま、作品とファンってのはたいてい片思いに終わる運命であるので、やるヤツはいくらでもやるだろうし。でも聖地巡礼記録をサイトに載っけてると、この原文テキストをもとに原理主義者に説教されたりするのかな<たぶんに当方の勝手な妄想

まあ、結論としては作品より作家へのファンになれってことで。作家って結構ファンとくっついているからね。編集者とくっつく方が多いけど。

広島の人気ベースボール犬・ミッキーくんがゲームに

今期のカープはミッキーだけかっ。あぁ、新井の奇跡のホームラン王が見られるのか?あぁ

そういや、パワプロそろそろ発売だ。

ラスト・オブ・モヒカン

どうも行く先々でモヒカン族モヒカン族と皆連呼してるので、はてどっかの局がラスト・オブ・モヒカンでも流したのかと思ってたらこれが元凶でした。
いつの間にか、ネットにサザンクロスシティが顕在してるとは。

やっぱりあれか。ムラ社会の者が武隈されたら「お代官さま、その種もみをとられたら、わしらは・・・」と返すべきなのか。ムラ社会の作法として。

的を使いすぎでしょそうでしょ

便利なんだよね、的。
んで、的的な言葉があると意識しすぎて過剰に使ってしまったり、まったく使わなかったりするのが当方のダメなところ。

『グロテスクな教養』(ISBN:4480062394)が面白い

ちょいと読みたくなった。って、こういうふうに即買うから積ん読本が増える一方に。
そういや、教養主義者(当方が勝手に認定)小谷野敦の新刊が。帰ってきたもてない男 女性嫌悪を超えてamazon
こっちも買いかな。ただこっちも当分は積ん読本になりそうな予感が。

マンガを読んでみたー

銭 3巻

鈴木みそは好きなマンガ家で、銭はおもしろくてすごい好きな作品なんだけど、月刊だし雑誌は読んでないしでなかなか読めないのがつらいとこです。まあ雑誌を買えって話なんでしょうけど。
この作品はタイトルのとおり銭の話なわけで、しかも金儲けの裏側の話中心で、なおかつ鈴木みそでという作品なんでおもしろくないわけがないのだけど、当方が一番よいと思うのは、いろんなきたない話が出てくるけどそれを絶対悪として糾弾してはいないところなんだな。spamメールなんてのはみんな非難して、あれを喜ぶ人なんているのかーってな感じがするわけですが、でもなくならない。大多数の迷惑なのになくならないものってのはあって、めいわくだーって言うのはかんたんなんだけど、じゃあその迷惑なものがなぜ迷惑なのになくならないのかってところ、構造的な部分とかカラクリ部分ね、を理解しないと根本的な解決策、意見は出せないんじゃないかってのはあって、この作品ではその社会的意義みたいなものを物語のなかで理解しようとしている姿勢があって、それがただの銭ゲバマンガじゃなくて、鈴木みそらしいな、と思うのです。

いつものことだけど、書くとどうにも的はずれな気がするのはなんでだろう。

20世紀少年 19巻

もりあがってまいりました。

正直なところ長くひっぱりすぎたかなとは思う。10巻届くか届かないあたりの話だった方が歴史に残る名作になったんじゃねえかなとは当方の邪推。

悪になるのは大変だ。

ラブやん 5巻

ラブやんカズフサとの離別の章。あっ、単行本で読んだ方がおもしろい。発見。
でも、その後全然離別になってないのはお約束というかテコ入れ失敗というか。

急に叫びたくなってどこかへ走りだしたくなること

暑かった。ここ数日暑かった。
扇風機が弱、もしくはいらなくても過ごせる状態なんで、エントリー書いてます、こんばんわ。
暑すぎて本読むスピードもがたおちだったし。

前に年寄り年寄りっていっぱい書いたんですが、当方は歳をとることは嫌いではありません。
むしろ好き。

自分が社会のパーツであることに安堵感を覚えられるし、答えがわかんなくても、まいっか、と思ってそのままにできるし、昔のアホさ加減と比べると歳をとるってのはすげえな、と思う。<当方がアホすぎたというのがあるかもしれませんが。

当方ガキのころはなんの力もなく、なんの責任もない子どもであることがイヤでイヤで、はやく大人になりたいと願っていた。だったら働いて金稼げばいいのに、そんなかんたんな決断をすることもできないオレはなんて子どもだとループしてさらに自己嫌悪に陥ったり。大人になりたい、大人になればって思ってた。ガキだなぁ。

子供が
子供なのは
大人が何でも
わかってるって
思ってるところだ

ていう花本先生(ハチクロ)の言葉はまっこと真理じゃと自分が歳をかさねて実感できる。あぁ、でもガキだった自分にこのことを教えてあげてもそういう状態があるってことを知ることはできても、わかる悟るまではむりだろうなぁ。だってガキだから。

それはそうと、ハチクロの自分探しの旅をやっても容易には答えを出させないってのは物語に対しての真摯さを感じさせられて、そこらへんがハチクロの好きなところなんですが、どうでもいいですね、ごめんなさい。

大学時代の末期に友人連の飲みの席で将来の夢を語り合って、そこでなるたけ早く隠居して本だけ読んでくらしたいって真顔で言って周囲を引かした犯歴を持っている当方が、歳をとるってすばらしいって叫んでも説得力がまったくないわけですが、よく自分の一番楽しかったのは高校時代だとか中学が一番楽しかったって言うじゃないですか。
でも当方にとっては今なんですよね。
きっと今、ただ今が一番楽しい。

昔より確実にかしこくなってて、それでいて自分のギアをトップに入れないでも周囲に遅れずに生きていける。
今どん底だなとか、生まれてきてごめんなさいとか、意味もなく一人叫びだしたくなったとしても、ま、なんとかなるっしょ、って将来にいろんなものを先送りにできる心。
歳をとるってすばらしい。

つまりなにが言いたいかというと、寄る年波には勝てず、暑さで当方すっかりまいってしまいましたというお話。

遺したもの

訃報:小倉昌男さん80歳=ヤマト運輸元社長

当然当方は御本でしかつながりがないのだが、読むたびに良い本だなと感じることができた著者であった。
最後に読んだ本は【福祉を変える経営】(だったと思う。当の本は人に貸して返ってきていないので)だった。

小倉さんはヤマト運輸引退後、ヤマト福祉財団を設立し、障害者の保護を重点を置いたそれまでの施策から脱し、障害者が働ける職場でありながら、ちゃんとした利益をあげることができる会社を設立し、真に障害者が社会に参与できる社会の構築に尽くしてきた。
この利益をあげることができるというのが重要だ。
障害者施設だけのことではないが、福祉施設は行政の補助金頼みの一方であって、自力ではとうてい立ちゆかないものばかりだ。りっぱに見える施設も、それは補助金を受けることができる“ちゃんとした団体”だからこそ運営できるのであって、最近はやりのNPO等がすぐにどうこうできるものではない。
行政の補助金は、当然我々の税金からであって、受給するためにはある一定のハードルをクリアしなければならない。そのハードルをクリアしたとしたとしも縛りは多く、小回りが利かなくなる。
今後、税収が減収していく一方のなか、補助金頼りの福祉は早晩立ちゆかなくなるだろう。

だからこそ、きちんと利益をあげることができる職場を、障害者に提供しようという小倉昌男の思想は正しい。
障害者は当然ただのかわいそうな人ではなく、他者とつながっていたい、社会に参加したいという欲望を持つ一人の人間である。
彼ら彼女らの受け皿を作ることが、自分の晩年の使命と小倉さんは悟ったのだと思う。

本書では、障害者が働けかつ利益をあげることができる会社『スワンベーカリー』を中心に話を進めていく。
今までの障害者の施設のどこが間違っていたのか、どうすればいいのかを実践的な例によって解説していくので、すこぶるわかりやすい。
障害者の製作所で作る小物はいったい誰が買うのか?必要なのは何が作れるかではなく何が売れるかという考え方、今までの障害者が働ける施設は、ほとんどの従業員が障害者で健常者の割合が少なかったのを、理想を言えば1:1までにすることが成功の秘訣である等々、非常に興味深い内容だった。
この分野に興味がある方はご一読をおすすめする。
介護保険が導入され、介護サービスが事業としてどっと広がったが、障害者の支援に関する分野も介護保険と同様な状態へという法改正がなされようとしている。読んでいて損はないだろう。

彼岸から、自分の遺したものを見守っているであろう小倉氏の冥福を祈る。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。