極東ブログのコメント欄より
橋梁談合って何が問題というエントリーなのだが、そのコメント欄にすみさんが書き込んだ内容が興味深かった。
いろいろと書いておられるのだが、話しの要点とすれば“談合は本当に悪なのか”ということだろう。
おっしゃる通り、公共工事は役人さんたちが単価を決めてびっしりと仕様書を設定して決められる。単価についてはいわゆる価格本とよばれる工事関係の単価が載っている本を読めばいいかもしれない。ちなみの価格本は月刊だ。価格ってのは変化するからね。
で、業者が儲けようかと思えば、どうするかというと簡単で手抜きだ。役人さんたちの指示どおりに作れば、そりゃJIS規格だろうがISO規格だろうがへのかっぱの仕上がりになるだろうが、実際のところ仕様書どおりに作っていたら業者の儲けなんてほとんどない。(マイナスになるかも)
大手受注業者がマージンをとり→中間業者がマージンを→現場零細業者へ、ってな行程をたどると現場で収益をあげようと思えば、自分たちで創意工夫するしかない。この場合、創意工夫ってのは巧い手抜き工事のことなんだけどね。
実際のところ、つぶれそうな現場受け持ち業者なんて山ほどいて、それらを使い捨てだと思えば価格なんていくらでも下げれる。上は下のことなんか知ったことじゃないってのは基本だ。
現場に出る職員と会社としての儲けってのは別の話になるってのが日本企業の悲しいところで。
自由競争をすれば価格は下がるのだろうけど、じゃあ価格が下がったらそれでいいのかという話なんだろうと。経済学的には自由競争は最大多数の最大幸福をもたらすことになっているから、ビバ自由競争となる。が、最大多数の最大幸福っていっても、その値がマイナスになることだってある。例えをひとつ言えば、完全自由競争が達成された結果、最大多数の最大幸福の値がマイナスになり国民全員が飢え死にした、っていう状況もありうる。マイナスだってそれが最大値であれば最大幸福なわけだから。
そういう意識があって、それはそれで説得力のある話だから建設業界は談合をやめないし、まわりもスルーするわけだ。(極東ブログさんのエントリーではその一種の国策を崩すというアピールが今回の事件だという話しも。うーむ、これも興味深いね)
じゃあ談合ってどこが悪いの、ってな話になるが、まあ一言で言ってしまえば権力の適正執行のためである。
入札をなしでコンペ形式で施工業者を決めるという場合(最近そういうのが流行りらしい)、その評価をどこまで信用できるかってのはあると思う。自治体の首長、議員の介入の温床になるんじゃねぇかっていう不安はつきまとう。せんせい、今回の工事はぜひうちで。これはつまらない物ですが、ってな話しはわかりやすすぎる構図だけど。
んで、自治体の首長は、自治体の最高責任者であって、じゃあなぜ首長の好きに業者を決められないかといえば、自治体の予算は我々の税金だからだ。権力というのは腐敗するというのが、近代の権力観であって、権力を監視抑止するためにあるのが法だ。
で、業者と権力との癒着を防止しているのが入札というわけ。落札価格というものなら誰がみても優敗がわかるものだからね。建設技術なんてどこが優れているか素人にはわからないが、どっちの業者が安い価格でやるかというのは誰だってわかる。
ビバ入札と言いたいところだ。
が、そういう理想ではなく現実としてはどうなのよ、ってな話しはあってしかるべきだろう。だいたい癒着とまではいえないけども、なれあいのレベルで契約業者が決まるなんてのは、民間の方が顕著なんじゃないの。
まあ、最近は不況不況で削れるものは削れで、昔みたいな状況ではないけどさ。
大きな技術革新があってコストが大きく下がるってな話しはある。というより自由競争のツボはそこだ。競争にさらされれば、業者間の設備投資も大きくなり研究開発も進む。その状況から新しい技術が生まれ、社会はより豊かにある。自由競争マンセー。
が、そういう長期スパンの話はあえておいといて、短期の話で価格競争に勝つためにはコスト削減ってのが現実的な話だ。で、悲しいことにコスト削減でまっさきに削られるのが人件費なのよね。
工事という現場にいる人間から見ると、自由競争によりコスト削減され人がいない時間の余裕もないってな状況を招くのが目に見えている場合、マスコミの談合=悪という報道に疑問を呈したくなるのは、ありうる話だろう。
マスコミの存在証明は権力の監視であるから、権力監視の道具である入札制度に親近感を持つのは当然だ。たとえそれで工事現場で苦しむ人がいたところで、マスコミの正義には当面関係ない。だからマスコミは談合即悪と報道する。もちろん確信犯でやっている。正義の執行のためだからだ。
当方、生粋の戦後民主主義教育で育った身で、しかも平和教育マンセーの広島教育界、民主主義万歳が骨の髄までしみているので、談合といえば批判したくなる。
が、マスコミが言っているから悪なのだ、では自分の脳みその存在意義を失ってしまう。悪の談合がなぜいっこうになくならないのか?という疑問を解き明かして、それを折り込んだうえでの批判でなければ、結局マスコミに踊らされている愚民でしかないのでは、とは自戒を込めて思う。
それに田舎に住んでいると、談合ってのは批判しづらいわ。田舎の就職先なんて土建か役場か農協だからな。農協もペイオフにより合併し続け、地元の人間も少なくなり、役場だって町村合併と緊縮財政で雇用なんてしない。土建も不況と政府の小さな政府方針で先は明るくない。
当方、消防団に入っているが台風などの緊急時には、土建屋が重機を持ってこないと塞がった道もあけられない、なんて状況は多々ある。安全と快適さを、自分とは違う誰かが守ってくれる都市なら問題ないのだろうが、田舎においては住民自治が基本だ。
土建屋がつぶれるとわかっている方針ってのは過疎化が一番の問題である田舎では、概念上の話としてはともかく、現実的にはできないというのは確かにある。土建屋入っている同級生がいなくなれば、ただでさえ少ない同級生がまるっきりいなくなってしまう。年寄りだけでどうやって生きていくのだろう?
民主主義と正義って難しいね。
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