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活字狂想曲

現実不適合者



怪奇幻想作家としての地位を固めた感のある倉阪鬼一郎のエッセイみたいな本。彼のサラリーマン時代のことを書いてある。怪奇幻想作家VS会社というモノの戦いは圧巻。

これは、まったく向いていない会社勤めを十一年間続けた、ある現実不適応者の記録である。


活字狂想曲
倉阪 鬼一郎
幻冬舎 2002-08


by G-Tools

本書は、日本で唯一の怪奇幻想作家(ホラー作家ではない)である倉阪鬼一郎が、印刷会社でサラリーマンなるものをしていた日々を綴ったものである。

なにしろ日本で唯一の怪奇幻想作家であるから「会社」なんてものに馴染むわけがない。
だが、会社帰りの飲ミニケーション、昇給=昇級の誘惑などという「会社世間」の重圧は重い。
それに一度でも甘い顔を見せたらどれだけのうっとうしい事態になるか。
だから怪奇幻想作家はあの手この手で「会社世間」と闘い、身をかわす。

本書が安心して読めるのは、著者である怪奇幻想作家が、自分が正しくて「会社世間」が間違っているから会社世間と闘っているのではない、という点だ。
この点を間違えると、ただたんに飲み屋で上司がバカだとグチるサラリーマンと変わりない。自分は「会社世間」に絡めとられていないと思っているのだが、もうすでにその行為が「会社世間」そのものである。
怪奇幻想作家が闘うのは、自分がイヤだからである。それだけだ。
なぜイヤなのかと聞かれれば、怪奇幻想作家だから、としか答えるしかない。
だから、「会社世間」の人たちを見る目線もどこかやさしい。(というかユーモラス?)
時には「会社世間」側に感情移入してしまうこともあるかもしれない。と油断しているといつの間にか「会社世間」のまっただなかにいる、という事態になるかもしれんが。
まあ、あっち側に違和感なくいられる方が幸せなのかも・・・


今も「会社世間」の重圧に苦しんでいる人はぜひこの本を手本にすべき。
ただし、変わり者として周囲から白い目で見られるという栄誉に耐えられる人のみ

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のら

真の自由



名前も家も持たない女性が主人公のお話。一話完結型の体裁になっている。彼女はいろんな街、いろんな人を訪れる。彼女が何かをするわけではない。「何か」は、名前も家も何にも持たない彼女と出会った人々の中に起こる。何も持たない彼女を見て、たくさんのモノを抱えた人々は何を思うのか。

なんでって 見たいだけなんだよ 目につくもの何でも 都合のいいこと悪いこと きれいなもの汚いもの へんなもの無意味なもの 普通であたりまえのこと  見るためなら つかえる金はすべてつかう 来る面倒は拒まない
のら』1~3巻 
入江紀子著 アスペクトコミックス



自由こそ正義だった。

人は信仰なしには生きられない。
信仰の対象が神さま仏さまから民主主義、自由、個人に変わってもだ。

私は自由を信仰していた。
自由こそが人の目指すべき至高の状態、何事にもかえ難いものだと、そう確信していた。
そしてそれは皆もおなじだとのんきに信じ込んでいた。
だが、そうではなかった。

教師が言う「君たちは自由なんだよ。生まれつき自由なんだ」という台詞を無邪気に信じていたこと。
同級生の教師や親、世の中に対する反抗心は、自由への渇望から生まれたものだと思っていたこと。
今となっては思い出すだけで恥ずかしい。

人は自由なんて真には欲していないのだ。
束縛されて、己の存在意義を確保したい。己のちっぽけな存在を認めたくないから、自分だけを認めてくれる人を欲し、ひとりになることを極端に恐れる。
私の最大の間違いはすべての人間にとって、自由であることが幸福である、自由=幸福だと信じていたことだ。
そうではないのだ。


『のら』の主人公は自由である。
でも、彼女は幸福だろうか。
彼女は言うかもしれない。「こうやって、ご飯食べられていろんな人に会えているんだから幸せに決まっているようん♪」また、こうも言うかもしれない。「幸福かどうかなんてわかんないよ。だって、私はむかしっからずっとこうして生きているんだもの」

自由というものは目指すべき目標ではないのだ。
それは宿命なのだ。
自由にしか生きることのできない者達だけのものなのだ。

なにかに束縛されて生きることは幸せなことなのだ。
己を束縛しようとするもの、それは他人であったりもっと大きなものであったりするのだが、そういったものと拘束されたくない自分との間でおこる戦い、緊張感からしか人の生きる意義は見いだせないからだ。


私は今いろんなものに束縛されて幸せである。

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