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マネー・ボール

経営としてのプロ野球



メジャーリーグのアスレチックスのことを書いた本。メジャー通は当然ご承知だとは思うが、アスレチックスは変わったチームだ。まず、資金力が乏しい。プレーオフの常連ヤンキースとは比べものにならない。しかし、アスレチックスはそのプレーオフの常連なのだ。なぜ少ない投資で、多大な投資をしたヤンキースと同じ結果が出せるのか。そのことをアスレチックスのGMビリー・ビーンを中心にして解き明かす。野球を科学的に解明したい人必見の本。

あなたは4000万ドル持っていて、野球選手を25人雇おうとしています。一方、あなたの敵は、すでに1億2600万ドル投資して25人の選手を雇ってあり、あとさらに1億ドルのゆとりを残しています。さて、あなたがこの敵と戦って、みっともない負けかたをせずにに済ますためには、手元の4000万ドルをどのように使えばいいですか。


マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男
マイケル・ルイス 中山 宥
ランダムハウス講談社 2004-03-18


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本書は非常におもしろい本である。まあ著者の力量不足で素材を使い切れていない、構成が下手等の難点はあるが、アスレチックスという素材がそれを補う以上におもしろい。
ただしかし、この本が野球好き向きかといえば難しい。本当に野球というものを好きな方なら、内容に賛成・反対でも楽しめると思うのだが、野球とはビール片手にプロ野球を見て騒ぐもの、野球を通じて精神を磨く、故にバントは絶対だ等々の考え方を持っておられる方は読まない方が無難だろう。

本書はメジャーリーグの球団のひとつであるアスレチックスを書いたものである。アスレチックスは奇妙なチームだ。まず採用する選手が変わっている。他のチームが興味を持たないような選手を獲るのだ。足が遅い。守備が下手だ。弱肩、ロートル、ふとっちょ等々ほかの球団なら獲得リストからまっさきにはずすような選手ばかりを獲る。しかし、その落ちこぼれ選手がみごとに活躍するのだ。
第二にアスレチックスは小技を使わない。バント、盗塁、エンドラン等々のベンチワークは御法度なのだ。攻撃は四球で塁を埋め、長打で返すという戦法だ。日本の野球指導者が一番嫌う戦術だが、これでアスレチックスは毎回プレーオフに進出している。

なぜこんなチーム運営をするのか。まず資金力の問題がある。プレーオフの常連ヤンキースの資金力と比べれば、アスレチックスの資金力はないも同然だ。ヤンキースとは違うアプローチで選手を集めなければ、資金力で上回るチームに勝てるはずがない。
そこでアスレチックスがとったのは、野球に統計学の手法を採りいれることだ。過去のメジャーの試合のデータを調べ、エラー数や打点などのあいまいなデータを取捨選択し、本当に勝利に関係しているポイントはどこかを探りだした。打線において重要なのは出塁率と長打率である。勝利のためには守備力より打撃力のほうが重要であり、守備力は5%の重要性しか持っていないとの結論に達した。

ちなみにエラー数や打点がなぜあいまいな数字なのかは、エラーと判定されるかどうかが主観に頼っているからだ。守備範囲の広い選手ががんばってボールに追いついてこぼした場合エラー、守備範囲がせまい選手が同じボールをワンバンドで安全にキャッチした場合ヒット。これを同じ数字と判定することが、公平で確実なデータになるだろうか。打点については、それはたまたまヒットを打ったときにランナーがいたからであり、本来ランナーも打点を生み出すのに重要なはずなのだ。だが打点という数字はそんなことを考慮に入れていない。

だから、アスレチックスは他のチームが見向きもしないロートルや鈍足、ふとっちょでも出塁率がすばらしければ獲得するのである。
バント等の小技についてもそうだ。データを調べてみるとバントやエンドラン、盗塁はやってもやらなくても得点力にはあまり関係なく、むしろアウトカウントを相手にくれてやるだけの、無駄なことなのだ。アスレチックスのフロントはバント等のベンチワークを監督のいいわけ以外の何者でもないと完全に禁止した。もしやるのなら100%成功する場面でなければやってはいけない。失敗でもしたらワンマンGMビリー・ビーンの逆鱗に触れてトレード対象になってしまうのだ。

日本の高校野球経験者には、まずもって受け入れがたい戦略だろう。野球のロマンを感じられない試合なんて、走攻守すべてに優れた選手がみせる試合こそが野球だ、と憤慨する向きもあるかもしれない。しかしアスレチックスがこの経営戦略で優秀な成績を残しているのは事実だ。
そう経営戦略と書いた。これは経営なのだ。
フロントの仕事は野球のロマンを語ることではない。勝てるチームを作るため戦略を持ち、勝つための選手を集め、勝つための指示を現場に与える。そう一般の企業なら経営陣がやるあたりまえの仕事だ。ただ野球だけがその『あたりまえ』が『あたりまえ』ではなかっただけだ。

今回のライブドアの近鉄買収騒ぎのさいに、ある球団幹部から売名行為との批判が出た。これを聞いて爆笑してしまった人は多かったろう。今プロ野球球団を所有している企業で売名目的でないところがあるのだろうか。一部のチームをのぞいて企業名が入っているプロ野球球団名。ユニフォームに宣伝効果を狙ってでかでかと書いてある企業名。これが売名行為以外の何者なのだろうか。
球団経営者の意識は、これらは売名行為ではなく野球という文化を守るためにやっているんだ、くらいのものかもしれない。そのためには少々企業の利益を考えても当然じゃないか、必要経費だ、という思いなのかもしれない。だが、本当に野球という文化を守っているつもりなら、ファンが悲しむに決まっている球団合併などをなぜ考えるのか。結局のところプロ野球経営は、大企業の社長の優雅な趣味のひとつでしかない。だからITなんて新参者がこの高級サロンに入ってくることがおもしろくないのだ。

アスレチックのフロントが野球のロマンなんて微塵も信じないビジネスマンに変わったところで、ファンがどれだけ悲しんだのだろうか。常勝チームになることで、球場に人はあふれ、球団売却も合併の話もない。経営者は経営を、選手は現場で野球を、ファンは地元の球場でプロ野球を楽しむ。三者はただ自らがあたりまえのことをしただけなのだ。そこには野球のロマンなどは作用していない。あたりまえのことを、あたりまえのようにしただけだ。だけど、すべては順調にいっている。

日本の野球界のニュースをみるごとに、あたりまえのことをあたりまえにやるという難しさをあらてめて実感してしまう今日このごろであった。
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燃えるV

惜しいっ



常に勝ち続ける男狭間武偉、またの名をビクトリー狭間。。。育ての親源を失い一人さすらう武偉は、ひょんなことからテニスに出会う。黒百合高校の三日月真澄、緑沢高校の赤十字風郎などと知り合い、テニスの世界にはまっていく。そしてその道は武偉が探し求める生きわかれの父への最短ルートでもあった。島本和彦的テニスマンガ、ここにあり。

それが男のテニスってもんだ!! わかんねえだろうがなあ…!!
燃えるV』全3巻
島本和彦 大都社
実は中学の時テニス部だった。



惜しい。
惜しすぎる。

あのころこのマンガを知っていたら、間違いなく部の中で広めて、みんなで迎撃ビクトリーとかスパイダーガッデムとかやって楽しんだのに(やるなよ)。
やっぱり部活動の楽しみってそういうところにあるんだよねぇ(そうか?)。


基本的な構図は『逆境ナイン』などの島本マンガ本流と同じである。
この作品のおもしろいところは、ライバル赤十字とのからみであろうか。
熱血マンガを描く島本和彦だが、ライバルモノが実は多くない。
主人公のキャラでもっていく作風だからライバルというモノを生かすのが難しいのだろう。
が、本作品ではめずらしく最初から最後までライバル赤十字がいい味を出している。
本作は、島本本流作品のなかではめずらしく、作品の魅力がキャラの力よりストーリーに負っているパーセンテージが高いような気がするのはそのためだろう。

いまから部活動でテニスを楽しくやろうとする人にオススメ

恋愛小説

愛のカタチ



中谷彰宏恋愛小説シリーズ。5ページくらいのストーリーで構成されている掌篇小説集。どのストーリーも短いが味わい深く、短いが故に文面には現れてこない部分を想像してしまう。この言葉の意味は……、この後二人は……、この人の過去は……、次から次ぎへと浮かんでくるストーリー。いつの間にか、8ページの話が大長編ロマンに変わってしまいます。どの話も幸福な読後感に浸ることができます。シリーズは『恋愛小説』『恋愛日記』『恋愛旅行』『恋愛美人』『恋愛運命』『恋愛不倫』の全6巻。

僕は、大きな勘違いをしていた。君は、嫌なことがあるたびに、引っ越しをするのだと思っていた。そうではなかった。君は、幸せになると引っ越しをするのだ。幸せにしがみついて、不自由にならないために。君にとっては、幸せさえも、お荷物なのだ。
『恋愛小説』
中谷彰宏 読売新聞社



私は短篇小説が好きである。
長篇小説が嫌いというわけではないが、やはりキレのある短篇の魅力に惹かれてしまう。
まあ、最近むやみやたらに長い小説が流行っているということも、短篇への愛情を深める一因になっているのかもしれない。

本書は掌篇小説で構成されている。
掌篇小説とは文字どおり掌に載るような小説のこと。
短篇よりも短い小説なのだ。当然私は掌篇小説が好きになった。

この本のなかは、恋愛でいっぱいである。
三年前の私ならこの本を読んでも、こんなことありえるわけないだろ、としか思えなかっただろう。
それほどいろんな恋愛(ドラマ)が描かれている。

友人たちと一緒に飲んでいると、大抵出てくる話題がある。
恋愛である。
友人たちの恋愛話を聞いてみると、世の中なんて広いんだと思う。
事実は小説より奇なり。この経験により、私は『恋愛小説』を読んで、その内容に納得できるようになった。

友人知人たちの愛のカタチ
・彼女の卒業式に、スーツに赤い薔薇を一輪というカッコで参上し、一言も言葉を発せず薔薇を渡して去る。
・彼女を、裸の上にコート一枚という格好でコンビニにティラミスを買いに行かせる男。
・渡部篤郎の話題で盛りあがったということで、つきあうことを決めたカップル。
・「彼女とは冷静に話し合ってお互い納得して別れたよ」というセリフを、酒をガブ呑みしながら何十回と繰り返す男。
・一週間ごとに彼女を変える。
・相手の前では赤ちゃん言葉で話す。もちろん寝るときはヒザを抱えてまるまった状態で寝る。
・旅の一夜、酔っぱらった勢いで友達の想い人とひとつのベットで寝てしまう。
・彼女が欲しいと一日に百回は言うくせに、女の子の顔を見て話ができない男。
・中学生の時、つきあっていた上級生と別れる場面で、柳沢慎吾ばりに「あばよ!」と言い走り去った男。
・遊び人のふりをして、事実年中遊んでいた男が、実は結婚していてしかも子供までいることに三年間気付かなかった。
・同じ理由でケンカし、別れ、再びくっつくという行事をあきずに年中やっているカップル。

私が大学時代、一番学んだことは世の中にはホントにいろんな人がいる、ということである。

全力投球 我が選んだ道に悔いはなし

広島でもっとも愛された男



プロ野球界の至宝“大投手”大野豊が自ら初めて書き下ろす、その生き方、考え方、そしてピッチャーとしての数々の打者との対戦・・・。軟式野球出身、信用組合勤務からテスト生でのプロ入り、デビュー戦の“天文学的”防御率135などなど数々の苦難を乗り越え、22年間に渡る栄光の実績と、42歳でのタイトル(最優秀防御率)獲得はいかにしてなしえたのか。その不屈の神髄がいま初めて描かれる! (裏表紙あらすじより)

はっきり言って、その場で選手生命が終わっていても不思議ではない、非常識な数字だ。しかし、この135.00という数字があったからこそ、プロの厳しさや怖さをこの身に焼きつけながら常に自分を戒め、22年間の生涯防御率を2.90という数字で終わらせることができたと思っている。
 大野豊はこの数字から始まった投手だということを、決して忘れたくない。


全力投球―我が選んだ道に悔いはなし
大野 豊
宝島社 2001-02


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北別府、大野、川口。
カープの黄金時代を支えた三本柱である。

このうちもっとも実力があるのは北別府であろう。
なんといっても二十世紀最後の200勝投手である。

しかし、もっとも人気があったのは大野豊だ。


普通、野球選手をイメージキャラクターに使っているCMは、その選手が引退してユニホームを脱いだら、他の人を使うかして、その人はもう使わない。
しかし、大野豊だけは引退後も現役時代と変わらないイメージでCMを使い続けられた。
それほど、広島では大野豊が愛されているのだ。

テスト生入団ながらも努力の一文字で栄光を手にする。そして気さくで飾らない人柄。彼のやさしさと誠実さは、ファンなら誰でも知っている。
そんな人間的魅力こそ、大野豊が愛される理由だ。

もちろん、人柄とプロ野球選手としての実力は全く関係ない。
プロは結果がすべての世界だ。
活躍しなければ、どんなに人間的魅力がある人だろうが注目されないし、愛されもしない。
だから私は人気選手の人柄や私生活などいっさい興味がない。
そんなモノは、野球選手にとっては無意味だからだ。

だが、何事にも例外はある。
大野豊だ。
彼のプレーを見るたびに、心が震えた。
彼に限っては、その人間的魅力がプレーに直接結びついているのだ。
彼のプレーひとつひとつから、大野豊という人間が伝わってきた。
彼独特のフォームから放たれるボールには、達川のミットにおさまる最後まで、彼の意志がこもっていた。
己が選んだ道を、ただ愚直に、前に進むのみ。

大野豊は、言葉ではなく、語りかけていた。
自分の信念を。自分という人間を。
そんな選手を見たのは、大野豊が初めてであり、最後でもある。


思い返せば、私がカープファンになったきっかけは、大野豊の投球である。
いまでも、あのときの一球を思い出すことができる。

あの一球を忘れない限り、私は野球ファンであり続けるし、大野豊がいた球団広島東洋カープを応援し続けるだろう。

活字狂想曲

現実不適合者



怪奇幻想作家としての地位を固めた感のある倉阪鬼一郎のエッセイみたいな本。彼のサラリーマン時代のことを書いてある。怪奇幻想作家VS会社というモノの戦いは圧巻。

これは、まったく向いていない会社勤めを十一年間続けた、ある現実不適応者の記録である。


活字狂想曲
倉阪 鬼一郎
幻冬舎 2002-08


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本書は、日本で唯一の怪奇幻想作家(ホラー作家ではない)である倉阪鬼一郎が、印刷会社でサラリーマンなるものをしていた日々を綴ったものである。

なにしろ日本で唯一の怪奇幻想作家であるから「会社」なんてものに馴染むわけがない。
だが、会社帰りの飲ミニケーション、昇給=昇級の誘惑などという「会社世間」の重圧は重い。
それに一度でも甘い顔を見せたらどれだけのうっとうしい事態になるか。
だから怪奇幻想作家はあの手この手で「会社世間」と闘い、身をかわす。

本書が安心して読めるのは、著者である怪奇幻想作家が、自分が正しくて「会社世間」が間違っているから会社世間と闘っているのではない、という点だ。
この点を間違えると、ただたんに飲み屋で上司がバカだとグチるサラリーマンと変わりない。自分は「会社世間」に絡めとられていないと思っているのだが、もうすでにその行為が「会社世間」そのものである。
怪奇幻想作家が闘うのは、自分がイヤだからである。それだけだ。
なぜイヤなのかと聞かれれば、怪奇幻想作家だから、としか答えるしかない。
だから、「会社世間」の人たちを見る目線もどこかやさしい。(というかユーモラス?)
時には「会社世間」側に感情移入してしまうこともあるかもしれない。と油断しているといつの間にか「会社世間」のまっただなかにいる、という事態になるかもしれんが。
まあ、あっち側に違和感なくいられる方が幸せなのかも・・・


今も「会社世間」の重圧に苦しんでいる人はぜひこの本を手本にすべき。
ただし、変わり者として周囲から白い目で見られるという栄誉に耐えられる人のみ

のら

真の自由



名前も家も持たない女性が主人公のお話。一話完結型の体裁になっている。彼女はいろんな街、いろんな人を訪れる。彼女が何かをするわけではない。「何か」は、名前も家も何にも持たない彼女と出会った人々の中に起こる。何も持たない彼女を見て、たくさんのモノを抱えた人々は何を思うのか。

なんでって 見たいだけなんだよ 目につくもの何でも 都合のいいこと悪いこと きれいなもの汚いもの へんなもの無意味なもの 普通であたりまえのこと  見るためなら つかえる金はすべてつかう 来る面倒は拒まない
のら』1~3巻 
入江紀子著 アスペクトコミックス



自由こそ正義だった。

人は信仰なしには生きられない。
信仰の対象が神さま仏さまから民主主義、自由、個人に変わってもだ。

私は自由を信仰していた。
自由こそが人の目指すべき至高の状態、何事にもかえ難いものだと、そう確信していた。
そしてそれは皆もおなじだとのんきに信じ込んでいた。
だが、そうではなかった。

教師が言う「君たちは自由なんだよ。生まれつき自由なんだ」という台詞を無邪気に信じていたこと。
同級生の教師や親、世の中に対する反抗心は、自由への渇望から生まれたものだと思っていたこと。
今となっては思い出すだけで恥ずかしい。

人は自由なんて真には欲していないのだ。
束縛されて、己の存在意義を確保したい。己のちっぽけな存在を認めたくないから、自分だけを認めてくれる人を欲し、ひとりになることを極端に恐れる。
私の最大の間違いはすべての人間にとって、自由であることが幸福である、自由=幸福だと信じていたことだ。
そうではないのだ。


『のら』の主人公は自由である。
でも、彼女は幸福だろうか。
彼女は言うかもしれない。「こうやって、ご飯食べられていろんな人に会えているんだから幸せに決まっているようん♪」また、こうも言うかもしれない。「幸福かどうかなんてわかんないよ。だって、私はむかしっからずっとこうして生きているんだもの」

自由というものは目指すべき目標ではないのだ。
それは宿命なのだ。
自由にしか生きることのできない者達だけのものなのだ。

なにかに束縛されて生きることは幸せなことなのだ。
己を束縛しようとするもの、それは他人であったりもっと大きなものであったりするのだが、そういったものと拘束されたくない自分との間でおこる戦い、緊張感からしか人の生きる意義は見いだせないからだ。


私は今いろんなものに束縛されて幸せである。

日本人のための宗教原論

新しい時代を生きるために



小室宗教学の決定版。小室博士にはいくつかの宗教本があるが、その集大成が本書。イスラム教・キリスト教・仏教・儒教の各宗教を、詳しく説明している。一般にいわれている宗教への認識がいかに誤っているかが本書を読めばわかる。宗教学初心者にもわかりやすく書いてあるので、宗教学入門書には最適。この本を読んだ瞬間からあなたは宗教博士になれるのは間違いない。

ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。あなたを救うのも宗教、あなたを殺すのも宗教である。


日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか
小室 直樹
徳間書店 2000-07


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21世紀は宗教の時代といわれる。
それは、逆説的かもしれないが世界がグローバル化して いるからである。
国境がなくなり世界がひとつになる、というのがよくいうグローバル化の効用であるが、ことはそう単純ではない。
実のところグローバル化は世界のキリスト教文化圏化にほかならない。
日本人のように宗教オンチで、宗旨が違っても同じ「人間」として分かり合うことができる、などという寝言を平気で吐く人種にはグローバル化など関係ないかもしれないが、世界中の大多数のまじめに宗教を信じる人達にとっては大問題なのである。

キリスト教が生んだ資本主義や民主主義、近代法などで世界を統一しようとする力と、それに対立するイスラムなどの諸地域の文化。
このふたつの争いの後、世界がキリスト教文化一色に染まるのか、文明の衝突が絶えることがない世界、はたまた新たな価値観の世界を産み出すのか、それはとても難しく、そして重要な問題である。
今現在わかっているのは、この問題を語るときに宗教を避けてとおる事ができないということである。

小室直樹のことについてはいまさら私が語ることもないだろう。
この世界において比すべき人を見つけることができない世紀の大天才といっておけば足りるだろう。
ソビエト崩壊という予言に続き、現在日本の末期的アノミーを的中させた小室直樹。
いまや、彼を抜きにして日本の状況を語ることは不可能である。
その著者の渾身の宗教論。
読めば、あなたの未来への道は豁然と開かれるであろう。


羊をめぐる冒険

村上春樹のおもしろさ



美しい耳の彼女と共に、星形の斑紋を背中に持っているという一頭の羊と<鼠>の行方を追って、北海道奥地の牧場にたどりついた僕を、恐ろしい事実が待ち受けていた。一九八二年秋、僕たちの旅は終わる。すべてを失った僕の、ラスト・アドベンチャー。村上春樹の青春三部作完結編。野間文芸新人賞受賞作。(裏表紙あらすじより)

「でもそれは遅かれ早かれいつかは消えるはずのものだったんだ。俺や君や、それからいろんな女の子たちの中で何かが消えていったようにね」


羊をめぐる冒険 (下)
村上 春樹
講談社 2004-11


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羊をめぐる冒険 (上)
村上 春樹
講談社 1985-10


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肉体的ではないのだなと思う。
肉体感がないところが好きなのだ。
肉体的ではないといっても現実感がないわけではない。
肉体的で現実感がない小説というのもある。


本書を私は下巻から読んだ。
別段意味があるわけではない。
ただ単に下巻だと気付かなかっただけだ。

これが下巻であるということを100ページを過ぎたあたりで気が付いた。
表紙の(下)という文字を見るまでこれは上巻であると信じきっていたのだ。

この本をもう読んでいる友人からは下巻から読んでて内容を理解できなかっただろうと言われた。

だが私には読んでいる最中まったく違和感はなかった。
確かにいきなり出てくる人物の話題などさっぱり理解できない事柄などはあったが村上春樹の小説はそういうものだという気持が私の中にあった。

事実下巻から読んでいても十分おもしろかった。

つまりはそういうことなのだろうと思う。

村上春樹の小説は下巻から読もうがエンディングから読もうがいいのだ。

基本的には小説のおもしろさを決めるのはシナリオである。
だが、村上春樹のおもしろさはシナリオではない。
村上春樹のシナリオが悪いといっているわけではない。
むしろ村上春樹のシナリオはすばらしいと思う。

勘違いで下巻から読んでも、それはそれでおもしろいと思うことができる作家。
それが村上春樹なのだ。



まあ、そう思っているのは私だけかもしれないが。

最近

本屋に行けてないなぁ。
うちの近所は田舎だから本屋なんてないし。

ネット本屋があるから本は手にはいるけど、立ち読みしながら本を選ぶ楽しさってのは格別だしね。
今週末も行けそうにないし。。。
はぁ。

天国への階段

物語への責任



天国への階段を一緒にのぼることを約束した女に裏切られ、帰るべき故郷を失った男柏木圭一。彼は東京で成功し、若き実業家となった。力を得た柏木は、故郷を失うことの原因をつくった男に対しての復讐を計画する。だが、着々と準備を進める柏木のもとに差出人不明の脅迫状が届く。それは、柏木の許し難い罪を暴こうとするものだった。はたして柏木の復讐はどうなるのか。

そのなかに圭一さんの姿を目にしたのです。天国に昇る階段を前にして、たった一段をも昇れずにうずくまっている圭一さんの姿を‥‥


天国への階段〈上〉
白川 道
幻冬舎 2003-04


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復讐の話が大好きである。

だから本初の上巻を読んでいる最中は興奮しながら読んでいた。
久しぶりに骨太の復讐話が読めると思ったからだ。
だが、読み進めていくうちにがっかりしてしまった。
途中から復讐話ではなくなったのだ。

私はそのうち、主人公柏木圭一と、その敵江成達也との暗闘が始まり、そこに謎の人物本橋一馬や桑田警部が絡んでくるのだと思っていたのだが、そんな闘いいっさいなし。
いつのまにか、復讐話が昔失った男と女の縁を取り戻すいい話になってしまっていた。

まあ、すごくいい話だとは思うし、これはこれでいいのだろうけど‥‥
前半読んで、期待してしまった私の気持ちをどうしろというのだ。
もっとぐちゃぐちゃとした昏い話を求めていたのに。
男って奴のどうしようもなさ、人のくだらなさ、こんなことをしても何にもならないとわかっているのに修羅の道を進んでしまう愚かさ、そんなものを期待していたのだが。


わかっている。
大多数の人は私とは違うということは。
みんないい話が好きなんだ。
救いようもない話なんて、誰も求めていやしないんだからな、このご時世じゃ。

私的には不満の残る一冊。

外食王の飢え

選ばれた者の宿命



外食産業の覇者を目指した男の野望と情熱。私大卒業まぎわ、倉原礼一は卒論を破り捨てた。自分は一流の人間でなければならぬ。私大卒の資格はいらない。野望は福岡に端を発した。レストラン「レオーネ」のチェーン化に奔走する倉原。一方首都圏には沢兄弟の「サンセット」が進出。倉原は首都決戦を挑んだ。(裏表紙あらすじより)


いま、ここで卒論を出しても、それらの人々の仲間入りをするだけ。平坦で、地を這うような人生へとふみ出すことになる。それより、いっそ卒論を破れば、あとは荒野か、原始林か、山なのか、谷なのか、皆目わからぬ人生が来る。


外食王の飢え
城山 三郎
講談社 1987-02


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経済小説の書き手としては一番好きな城山三郎の最高傑作。一大で巨大レストランチェーンを築き上げた男の物語である。

大きなことを為し遂げる男というのは、何者かの大いなる意志によって動いているのではなかろうか。

そう思うことが、成功者の評伝を読んでいるときにある。
もちろん本人は自分で考え決断しているのだが、俯瞰してみると最初から定められた道をたどっているように見えるのだ。

その道に進もうとした最初の一歩、数々の苦難・逆境、大きな成功、そして終焉。

本書の主人公倉原礼一の人生も、そのように書かれているように私は思う。
働き過ぎによって体をこわしぼろぼろになっても、なお前に進み続ける。
そこにはもはや外食産業の覇者を目指すという当初の目的はない。
前に進まなければならないという何者かの声を聞いているかのように、行きつく所が奈落の底だとしても前に進む、ただそれだけである。

だから私は本書のラストに、納得した。

このような生き方をしてきた人間は、このように終わらなければならないはずだ。
そう読みながら思っていたからだ。

選ばれた男はいかに生きるべきか。
その答えがここにある。

The Star この星

あたりまえの物語



林原めぐみが自分で撮ったフォトと掌編を組み合わせた本。四編の短い物語が収録されている。あとがきによればそれは「フィクションだったり、ノンフィクションだったり、夢だったり、過去にも書いたことのリメイクだったり……。私が私として生きるうえで、どこかしら支えであり、基盤であり、みちしるべのような言葉、空気、感覚をつづった」ものである。読後不思議な感覚包まれる本。

まずは、明日しっかり働こう
音楽のことも、もう一度ちゃんと考えよう
それは悩むという角度より
15度ほど上向きな気がする……


この星
林原 めぐみ
KTC中央出版 2002-04-02


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人間誰にだって物語があるという。

このときの『物語』とはなんだろう。
ハリウッド映画並の弾丸、爆発、アクション連続の物語だろうか。
ロミオとジュリエットのようなとんでもなく深刻な愛物語だろうか。
そんな大げさな物語を『誰だって』もっているだろうか。


毎日決まった時間に起き、毎日決まった場所に行き、毎日決まった仕事をし、毎日決まった店で酒を飲む。
そんなでこぼこがない人生を死ぬまで続ける人もいる。
そんな平坦な人生に物語はあるのだろうか。
おそらく、その平坦な人生を送ること自体が物語なのだろう。

人があたりまえに生きる、ということ自体がすごいことなのだ。
もちろん生きている本人は、それが『すごい』ことなんていう自覚はないのだけれど。
でも、人というのはふと気付くことがある。『自分があたりまえに生きている』ということを。
きっとそんなとき、平凡な人生が物語になるのだろう。


この本に書かれていることは、『自分があたりまえに生きていることのすごさ』を気付いた瞬間の物語なのだろう。

誰でも出会うかもしれない風景がこの本にはある。
年老いた父と母をひどい渋滞の中送る最中、父が呟いた一言。
生き方も考えも違うけれども、それでもなぜか気の合う友の一言。
それぞれのきっかけから人はそれぞれいろんなことを考える。
自分の父と母の人生を思い、そしてその人生を受け継いでいる己。
友人の悩みにシンクロし、ふがいない自分を振り返る。また別の友人の一言から、後悔の念から抜け出しひとつの決意を持つ。

己が誰かがわかったところで現実が大きく変わるわけではない。ひとつの決意を固めたからといって、なにかが劇的に変わるわけではない。ただあたりまえの日常が待っているだけだ。
ただなにかに気付くことで、今までのあたりまえの日常とは違ってくるのだと思う。
漫然とあたりまえの日常を送るだけと、自覚的にあたりまえの日常を送るのは違うはず。

爆発も大アクションも大恋愛もないけれど、自分が生きる場所はこの『あたりまえの日常』なのだ。
そしてそのことに気付くことが『物語』だ。
自分には物語がある、そう思うことが人の幸せにつながるのだと、私は信じたい。

二人の天魔王「信長の真実」

権力者の孤独



「天魔王」織田信長とは、一体どのような武将であったのか。豊富な文献・資料を縦横に駆使し、従来とはちがった驚くべき実像を浮きぼりにする。信長は父・信秀の嫡統だったのか。出自の解明から数々の奇行、合戦に隠された謎に迫る。そして、もう一人の天魔王・足利義教との対比から「信長」の真実を明かす。

信長は誰からも愛されない。誰も信長を信じない。誰も信長を必要としない。すべてに利用され、そして死んだ。


二人の天魔王―「信長」の真実
明石 散人
講談社 1995-09


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歴史が好きである。

それは小学生の時、休み時間にずっと偉人伝記を読んできたからであろう。
あまりにも夢中になり授業開始のベルが鳴っても気づかず、不審に思った同級生全員が私を捜索し、図書館で発見されたということがある。

あまりまわりの人とは趣味が合あわない私ではあるが、この歴史好きというのはどこにでもそこそこはいるようで、他人とわかりあえる数少ない趣味となっている。
だが、ゲームの影響だろうが日本史好きというのはたいてい戦国時代好きであり、他の時代には詳しくない。
いや興味がないと言ったほうがよいのか。
室町時代などせいぜい足利義満まで、という人が多い。
これはもったいない。
室町時代は皇国史観の影響で冷遇されてきたが、実はとてもおもしろい時代なのである。

本書は、天魔王と呼ばれた男織田信長をもうひとりの天魔王足利義教と比較し、新しい信長象を映しだした書である。

信長の真実というサブタイトルが付いてはいるが、主役は足利義教といっていい。
この足利義教、信長をおしのけて主役を張るほどのものすごい人物なのである。
いわば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の師匠なのである。

義教とはどんな人物なのか。
「比叡山攻め」「南朝殲滅」「関東平定」「宗教界制覇」「九州平定」を成し遂げ、わずか13年で奥州から琉球まで制圧した。
これが彼の業績である。
どれをとっても偉大なことだがこれをひとりの人間が成し遂げたのである。
業績だけを聞いただけでも彼が日本史史上屈指の英雄であったことが分かる。
だが義教が偉大なのは結果を残しただけだからなのか。
では、義教のもっと深いところを見てみることにする。天魔王と呼ばれた義教である。 

義教が天魔王と呼ばれるようになったのは、義兄の日野義次が自分は将軍の義兄であると声高に吹聴したため所領を没収し閉門を命じたことと、
そして義次の実妹で義教の室の重子が7年目にしてようやく嫡子(義勝)を出産したとき、そのことにより義次への罰が解かれるだろうと思い義次の家へ祝賀にいった人をひとり残らず厳罰に処した事による。
普通将軍の義兄で次期将軍の祖父ともなれば栄耀栄華を極めることになるのだが、この義教の処置により当時の日野家は惨憺たるものだった。
これは義教が権力は「純粋に個人のもであり係累に及ぶものではな」く将軍ひとりにのみ存在すると認識し、「将軍の権勢を何人も利用してはならないと考え」たのである。
この義教の姿勢を著者は高く評価する。
「今の世でも、権力者の家族、親戚、親友、忠実なスタッフ、たったこれだけの理由であたかも自分も権力者になったかのように錯覚し傲る人が多い」からである。



よく独裁者の孤独という。
私はこれを当然と思う。
権力者は絶対的な孤独でなければならない。
誰より愛する家族であろうが信頼するスタッフであろうが、自分以外の者であるという点については、赤の他人と一緒である。

考えてみるといい。
権力というものが一義的ではなかったとき世の中はどうなったか。

格好の例がある。足利義政の治世である。
義政は父義教と違い政治力はなかった。ゆえに権力は日野富子、細川勝元、山名宗全など多くの者が持つこととなった。
その結果どうなったか。
応仁の乱が起こり京都は灰燼と化した。
絶対的な権力を持つ義教が赤松満祐に殺されず、生きのびていれば応仁の乱は起こらなかっただろう。



「己はこの世の中のたったひとりの己である」




今の世の風潮では孤独を完全な悪と糾弾する。
成功者の奇行をあげつろい、やれ家族の愛が足りなかったのだ寂しい人生だのいう。

だが孤独だからこそ成しえるものがあるのだ。
物事は単純に割り切れるものではない。

孤独にも善と悪の両面があるのだ。それを自分の考え方にあうほうだけをと、自分の思考の範囲外だからと片面のみの効用しか認めないのは狭い了見としか思えない。

人間とはそう単純なものではないのである。


未来放浪ガルディーン 3巻 大豪快。

ふたつの奇跡



(過去ログ転載)
火浦功未完の大作(この作者、未完の大作以外あったっけ?)。はるかな近未来?の物語。そうSFです。帝国に反逆するコロナ<筋肉娘>フレイヤー、シェラ、スリム<口先男>ブラウンの三人組に、おまけのヤマト・マーベリック、おっと忘れてはいけない、歌って踊れてベタも塗れる<完全兵器>T-178<ガルディーン>のパーティーの珍道中を描いた作品。……うぅ、嘘は書いてないはずなのに、何故か自分が大うそつきの気がする。この本のあらすじ書くの無理です(泣)

デジャブか?  ――いや、アンコールさ。ヤマトは、自分にそう言い聞かせて、ゆっくりと歩き始めた。新たなる冒険だかお笑いだかの旅に向かって。


大豪快。―未来放浪ガルディーン〈3〉
火浦 功
角川書店 2000-12


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21世紀の奇跡ここにあり。
未来放浪ガルディーン、14年ぶりに連載再開す。

うぅ、それにしてもまさか世紀をまたぐ作品になろうとはっ。
感慨がありすぎて涙なくしては読めない、でも読むと笑っちゃうという
二重に?お得な作品になっちゃいました。
このままの勢いでいけば、ホントに完結するかもしれない。
そうなれば、まさに奇跡。奇跡中の奇跡。
世界が滅びなかったのはこの奇跡を待っていたからだ。

ここでひとつの奇跡の話をしよう。
いや、火浦功の奇跡とはまったくこれっぽっちも関係がないのだが。
ただ誰かに話したかったんで。

私の知人にケンさん(仮名)とホシさん(仮名)という人がいる。
彼らはそれぞれ、ケンさんはオーストラリアに1年間、ホシさんはアメリカに3ヶ月行っていた。
ケンさんは皮ジャンとグラサンが似合い、ターミネーターというあだ名と持っている男だ。
ホシさんは女の子が三度の飯より好きというナイスガイだ。

ホシさんはソウル空港経由で日本へ帰ってきた。
ホシさんがソウル空港でぼ~としていると、前を革ジャンとグラサンを着けた無精髭の男が歩いていた。
まさかなぁ、いやしかし、と思い、迷いながらもホシさんは「ケン?」とつぶやいてみた。
なんと、目の前の男はその言葉に反応し、「ホシさん!!!!!!!」と叫んだ。二人は再会の喜びを、ひしと抱き合うことで味わった。
オーストラリアとアメリカ、北半球と南半球、それぞれ別の場所から旅立ち、お互い偶然にも日本直帰ではなくソウル経由で日本に向かっていた。偶然にも同じ日、同じ時間にソウル空港にいた。(もちろんお互い相手がいつ帰国するかなんて知らない)この偶然を奇跡ということ以外で説明できようか。いやできない(反語)
我々はこれを、ソウルの奇跡、ソウルの再会、と呼びたい。

だが奇跡はそれだけではない。
ケンさんとホシさんは飛行機も偶然同じだった。だがそれは「ソウルの奇跡」を起こした二人であらば、必然ともいえよう。
奇跡はそのあと起こった。
ホシさんは税関も越え、ひさしぶりに日本の大地を踏みしめていた。
ところが、一緒の便に乗っていたはずのケンさんが出てこない。
一時間ほど待ち、ようやくケンさんは出てきた。
なんとケンさんは髭もじゃ、革ジャングラサンという格好で、真っ白い粉である粉石鹸をペットボトルに詰めこんで持ち歩いていたのだ。
いろめきたった税関に一時間詰問されたのはいうまでもない。(靴の底までレントゲンで調べられたらしい)

ガルディーン復活とソウルの奇跡。このふたつの奇跡をさっそくバチカンの奇跡認定所に報告したいと思う。

大観峰

九州熊本の阿蘇大観峰に行ってきました。
あんまり、こういう観光地ってのは期待しないんですが、ここは良かった。
雄大とは、このことをいうのでしょうね。
なんといってもでかい。しかも、そこから見える風景は、あまり“日本的”ではないような気がします。
たしかに田園風景が日本的なんでしょうが、台地上の広大な外輪山のすべてが牧草地というのが、非日本的な感じを受けるのでしょう。
田園風景=日本という偏見だとはわかっていますが、中山間地域のこまごまとした田園地帯に慣れ親しんだ私にとって、広大な台地を感じる場所は、非日常を感じてしまうのです。

結局、それぞれの人のうちにある“日本”は、自分の生活環境に大きく影響されるんですね、あたりまえのことなんでしょうが。
大観峰にすんでいる人にとっては、この光景こそが“日本”なのかもしれませんし。
そんなことを考えさせてくれた、展望でした。

大学時代しなければならない50のこと

大学時代というもの



早稲田大学演劇学科出身の著者の経験を素にかかれた啓発本。ここにかかれているのはおもいっきりヘンな大学生である。あまりにも変すぎるために、この姿こそが大学生の王道ではないのかと思えてしまうほどだ。そんなバカなと思いつつ、読み進めていくうちに、つい共感を覚えてしまう。大学生はもちろん、大学生じゃない方にもお薦めの本。

これが母親の最後の希望でした。ところが僕の進んだのは演劇科でした。これで世捨人としての人生は確定しました。


大学時代しなければならない50のこと
中谷 彰宏
PHP研究所 2000-12


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大学時代出会わなければならない50人
中谷 彰宏
PHP研究所 2001-07


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私は大学生活のために一人暮らしをはじめて、初めてのひとりぼっちの夜を過ごした。



次の日、本屋に行こうと思った。
蔵書が多いと聞いていた本屋だった。


そのころ私は街の地理も、その本屋の場所も全く知らなかった。
でも、私は歩き出した。目的地などどうでもよかったのかもしれない。



結果から言うと、本屋は見つかった。半日歩きまわり、もう帰ろうとしたときだった。
奇跡だった。



その本屋で何をしたのかは、いっさい憶えていない。
そもそも、何のために本屋に行こうと思ったのかさえ憶えていない。
いや、はじめから理由なんてなかったのかもしれない。
もちろん帰り道を忘れた私が家につくまでまたも半日かかったことは言うまでもない。





何故こんなくだらない私の話をするかというと、この本を読むと、このときのこと、このときの想いがよみがえってくるからだ。
あるかないかわからないような目的に向かってうろうろと一歩一歩進んでいく。
大学時代とはそのようなものではないか、そう感じさせてくれる本なのだ。

サムライカード、世界へ

日本発クレジットカード



日本の大手カード会社の中で、独自の海外展開戦略を採っているのはJCBだけらしい。他のカード会社は海外の大手カード会社VISAやマスターと提携して海外でも使用できるカードを発行しているという状況なのだ。
てっきり、カード会社なんて海外産ばかりかと思っていたのだが、どっこい日本の会社もがんばっているらしい。本書は、そのJCBの海外戦略を時系列的に書いたものだ。JCBを知るためには格好の本である。プロジェクトXのノリで読めば、さらに楽しいかも。

出発までに台湾に関する本をたくさん読み、知識は詰めこんでいったつもりだったが、現地に着いて違和感があったのは南国独特の〝臭い〟だった。活字や写真では臭いまではわからない。

サムライカード、世界へ
湯谷 昇羊
文芸春秋 2002-08


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この手のビジネス書(新書だけどね)はわりと好きである。厳しい人になると批判精神が足りないと言われそうな内容であるが、新書程度の分量では、まず“いいところ”を中心にして話を進めていった方が、良い本になる。
そもそも、この本は、大手カード会社がみなアメリカ産の中、純日本産の国際カードが活躍しているのを紹介する本だ。とにかく読んでてJCBのがんばりが良くわかるし、そのがんばり方が、いかにも日本企業のやり方という感じで好印象なのだ。
今では普通にカードを使ってしまうが、少し前まではカードを使うこと、もっと言えばカードを持つこと自体に嫌悪感があった。そういう感覚の人は案外多いような気がするのだが、どうだろう。
そういった、カード自体に不信感があるが、興味もまたある、といった人にお薦めの本。カードに親しみがわくかもしれない。もちろん、カードは取り扱いに注意するのが大人の常識ですよ。

ジョッキー

期待の若手



(過去ログ転載)
所属厩舎の窮乏をすくうため、身を引き貧乏フリー騎手となった中島八弥。八弥にまわってくる乗り馬は問題がある馬ばかり。しかし八弥は、信じるのは自分の腕一本という兄弟子糺健一の言葉を胸にターフを駆け抜ける。ある日、八弥にオウショウサンデーという素質馬への騎乗チャンスがめぐってくる。デビュー戦を勝ったオウショウサンデーの素晴らしさに八弥は感激するが、オーナー伊能の言葉に疑問を抱いてしまう。八弥の運命や如何に。

八弥はいつまでも代役だった。糺に逃げられて勝負を挑むことも出来なかった。

ジョッキー
松樹 剛史
集英社 2005-01


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第14回小説すばる新人賞受賞作。

競馬好き、それも競馬の裏側、厩舎の裏事情や人間関係などに興味がある者にはおもしろい作品だろう。
一章ごとに八弥が乗る馬が変わり、そこに競馬界の知られざるエピソードが挿入されている。競馬界に興味がある人には、興味深く、おもしろい。


本書は、八弥とその兄弟子糺との関係を素にした縦糸に、毎章ごとの問題のある馬を乗りこなす八弥のレースが横糸となっている構成になっている。
構成、登場人物ともよく考えていし、取材も十分したのだろう、競馬界のエピソードもおもしろい。
これがデビュー作であり、しかも若干24歳(25か?)ということを考えると、よく出来た作品である。

ほんとうに良く出来た作品だ。

だが、この新人の次回作を是非読みたいかというと、そこまでは思わない。
確かによく出来ていると思うが、話の本筋、糺と八弥との物語が弱いのだ。
構成はよくできている。が、それだけである。
物語に力強さがない。
読んでいて、この物語の台本が透けて見えてしまうのだ。
話がワンパターンだといっているのではない。
たとえば、ラストで主人公が過去と向き合い過去を清算するのだが、主人公がそう決心するだけの説得力がまったく感じられない。
描写力が足りない、とでもいうべきだろうか。
ここらへんは若い著者にそこまで求めるのは酷というものか。


ドラフト一位で入団した高校生ピッチャーのようなものだろうか。
一級品のスライダーを持っていて制球もよく、良素材であるが、いかんせん体の線が細くそのままではプロでは生き残れない。
もっとパワーアップして力のあるまっすぐがほしい。
これが、現在の松樹剛史への評価である。

ぜひ筋肉をつけて、よく出来ただけではなく力強い作品を読みたいものだ。

家族八景

家族のカタチ



常ならぬ者として己の正体を隠しながら生きる、超能力者七瀬。そんな彼女がお手伝いとして「普通」の家庭の中で働く。テレパスの彼女は望む望まないにかかわらず、善良に見える家族の裏を見てしまう。彼女は家族の真の姿を見、何を思うのか。孤独な七瀬のさすらいの物語。「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」と続く七瀬三部作の第一作。筒井康隆の傑作正統派SF小説。

どうぞ、いつまでもお芝居を続けてください。いつまでも家族サーカスをお続けなさい。舞台装置じみた小綺麗な尾形家を振り返ろうとせず、七瀬は門をでた。

家族八景
筒井 康隆
新潮社 1975-02


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本書は、他人の心を読みとる能力、精神感応テレパスを持った女性七瀬がお手伝いとして八軒の家を訪れる物語である。
七瀬は訪れるそれぞれの家に住む家族の心の中を見る。
そして虚飾と欺瞞に満ちた家族の姿を暴きだす。

世間体のために求められる仲の良い家族像を演じる家族たち。
自分たちのためではない、人に見せるための家族愛。
自分たちは家族なのだと確かめあわなければ生きていけない家族たち。
家族を見下しながらも、そのバカな家族の一員でありつづける者たち。
記号としての親。記号としての子。記号としての家族。

家族とは何か。人は何故このような嘘を抱えながらも家族であろうとするのか。


それほど家族というモノは魅力的なのだろうか。
本書に出てくる家族は、皆一様に愚かで醜い。
だがそんな愚かさ醜さは、どの家族も持っているのではないだろうか。
世の中には普段から憎しみあっているように見える家族から仲睦まじく見える家族までいろいろいるだろう。
でも、どんな孝行息子でも親がうっとおしいと思うときはあるし、いくら血をわけた親でも子を信じられなくなるときはある。
それでも我々はたいていの場合、“家族だから”というたったそれだけの理由で相手を許す。
たったそれだけの理由だ。家族とは何か、なんて誰も考えずに。
なぜ我々は、家族であろうとするのだろうか。
 
七瀬は家族の裏側を見る。それは残酷な行為かもしれない。
超能力者という、孤独な特権者である七瀬は欺瞞のなかに好んで生きる者達を理解できないし、彼らも七瀬という異物を理解できないからだ。

七瀬に家族の裏側を発見された“家族たち”はうろたえる。
それは家族たちが見て見ぬふりをしてきたモノだからだ。
家族といえども、親と子だろうが別の人間であることは間違いない。
別々の人間が家族というたった一言で結ばれている状態、よくよく考えてみれば家族というものは異常なのだ。
家族を成りたたせているモノはなんだろうか。
金か。たしかに真である。子が親に逆らえないのは親に養われているからだ。では家族構成員全員が生まれた瞬間から金に不自由しない身であったら家族は成立しないのだろうか。
血か。たしかに真である。これこそ説明不要なぐらいの家族成立の条件のように思える。どの国の家族概念も血のつながりから発生している。では血のみで家族のすべてを語りえるのか。我々はもうすでに血のつながりのない家族の存在を知っている。現代とは血のつながりが絶対の時代ではないからだ。血がつながっていなくても子を求める夫婦。夫婦という形態をとらず、ただ寄り添いあう人たちもいる。彼ら彼女らも家族であろう。
家族は自分たちがなぜ家族かなど知らないのだ。
それは目を向けてはいけないモノなのだ。目の前にあっても見えず、決して存在しないモノ。
ひとたびそれが現れてしまえば、底なしの暗闇に吸い込まれるように、家族は家族という空間から放り出されてしまう。


七瀬という第三者が介入することでそれまでギリギリの所で保っていた虚飾と欺瞞のバランスが崩れ、家族は崩壊してしまう。

しかし、彼らはそれが虚飾と欺瞞にまみれていたと思い知らされても、また虚飾と欺瞞の世界に帰っていくのではないか。

なぜなら彼らは孤独には生きられないからである。

彼らには真実というひとりぼっちの荒野はつらすぎるのだ。
たとえ“家族”というものが嘘でも、いや嘘だからこそ彼らは家族であり続けるのである。


そして、もともと孤独な七瀬にはどこにも帰るところがないのである。

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タイトル【おどり読書】

推敲をしない日々の思いつきをつらつらと書きのこしていく日記

  • 書いてる人:taigo
  • 年の頃:30代になんてもっと大人だと思ってた
  • 最近思うこと:ALL for J1!J1復帰!

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