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夕凪の街 桜の国

物語は、原爆投下後10年を経た広島から始まる。あの惨禍から力強く復興しつつある町並み、そこに暮らす人々。それまでと同じような日常を暮らす人々。だが、だからこそか、あのことについては誰も触れない。街のいたる処に、自分自身にあの時の傷跡が深く残っているというのに。
夕凪の街の主人公皆実は、半袖の服を着ようとしない。自分の腕に残ったあの時の傷跡を見てしまうからだ。 そんな皆実は、職場の同僚と心を通わすことになる。お互いの気持ちを確かめあった瞬間、あの時の風景が甦る。建物は中の人ごと潰れ、消えることのない火が街を包む。道も川も辺り一面死体であふれ、肉親でさえ見分けのつかなくなった様相の人々がさまよい歩く。自分に何が起こったのか、何を訴えればいいのか、何一つわからない人々のうめき声で埋まる、かつて街だった土地。
その中で、父を失った。妹を失った。友を失った。あらゆるものが奪われた日が、愛す者の後ろに見えた。

たまらず皆実は駆け出すほかなかった。あの地獄の光景が甦る。なぜ、自分だけ助かったのか。自分は生きていてもいいのか。あの風景を抱えたまま幸せになることなど出来るのか。

第二編桜の国では、その後の人々、被爆二世三世が主役となる。
時は平成16年。皆実の弟旭は、一家の主として被爆者の妻とともに娘七波、息子凪生を育てた。妻が亡き後は家族三人暮らしだ。
七波は、不審な行動をとる父旭が心配で尾行をする。出かけた父が向かった先は広島だった。あの時から60年。あの時のことは時が経とうとも終わることがなかった。

あの時

すべて失った日に
引きずり戻される
おまえの住む世界は
ここではないと
誰かの声がする

夕凪の街桜の国夕凪の街桜の国
(2004/10)
こうの 史代

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何度読んでも傑作である。傑作であるが故に語りづらいのではあるが。
私自身は被爆三世になる。だが、ずっと広島で生活していたからか、凪生のような苦しみを経験したことはない。当たり前だが、同級生に被爆三世なんてごろごろいたのだ。たいていみんな気にしていない。
ただ、それは私が広島に生まれ育ったからで、祖母の家に泊まっては、夜あの時の話を聞いた経験があるからだろう。広島長崎以外の人にとっては原爆など、遠い昔に落ちた爆弾であって、放射能という怖いものを浴びた人がいて、その子孫が今も生きている、というだけの話なのだろう。

被爆者も高齢化し、もはや亡くなっても大往生となり誰も原爆のせいだろうとは思いもしない。私が病に倒れたとしても、それは原爆の影響ではなく日頃の不摂生のせいだと周りからなじられるのが関の山だろう。でも、私が被爆三世なのは事実で、いつ死んでもおかしくない人間なのかもしれない。

もはや、もう誰もわからないのだろうと思う。過去には、自分が被爆者と知られるのを恐れて被爆者手帳を申請しない人は大勢いたが、今や医療費負担をしてくれる手帳を誰もがほしがり、あいつは被爆してないのに手帳を持っているなどの陰口が流れる。あの日を生き残り、その後も幸福にも長寿を得た今、あの時の記憶を抱えたまま、変わらない日常を送らねばならない。
認定被爆者の基準についての裁判が進行中であるが、あれも金が欲しいのではなく、あの時受けた衝撃を、心の穴を、何かによって埋めたいのだと思う。

市内を本通りなどを歩くとき、思うのだ。ほんの昔ここは地獄だったのだと。自分の足下には幾重もの死体が埋まっているのだと。
だが、思うだけだ。すぐに変わらない日常のもと歩き出す。

原爆は語りづらい。

廣瀬純 野球日記

8月6日付けの記事なのに他に言うことはないんですか?
というお叱りのコメントでした。

私が原爆を語りづらいのは、「原爆の日」自体を他者への攻撃材料にしてしまう人がいるからだ。
もはや被爆者ですら、あの時の記憶を傷を思いを、どうにも出来なくなっているのだと思う。あの時の光景を抱えたまま、生き続け子を為し、育て親としての仕事を終えた後、ふと振り返ってみると原点にあの時の光景がある。その気持ちは、本人でない私にはとうていわからない。あの時の光景を幼い私に語る祖母の目を、私は忘れることは出来ないだろう。

そういった、原爆に対してどうにもならない気持ちが、平和記念資料館やはだしのゲンに代表される直球の表現ではなく、複雑なそれでいて深い傷として表現した本作に共感できた理由だろう。

もう少しすれば、あの光景を目に焼き付けた人たちはいなくなる。その子どもたちである私が、何をすればいいのか未だにわからないけれども、祖母たちのように生き続けていかねばならないだろう。この夕凪の街で。


夕凪の街桜の国

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書評/歴史・時代(F)

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借りたカネはやっぱり返すな!

前著「借りたカネは返すな!」の出版から5年。債務圧縮のノウハウの普及、法改正などにより時代は変わった。もはや借金を過度に恐れる必要なんてない。決意次第で、債務は合法的に圧縮できる。たかがお金のことで自殺なんてばからしいのです。借金と闘うためのノウハウ本、再び。

主に中小企業の経営者向け

これもよくいわれることですが、経営者が自殺するときに、手形の不渡りが出て1ヶ月後に自殺するケースは聞いたことがありません。たいていは、不渡りが出る直前に電車に飛び込もうとするのです。 なぜか。それは、不渡りが出て倒産すると自分がどうなるか、会社がどうなるか、まったく見えないからです。

借りたカネはやっぱり返すな!借りたカネはやっぱり返すな!
(2007/06/01)
金野 力/神山 典士

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前作、借りたカネは返すな!は名前だけは知っている本だった。
それが最近色々とあり貯蓄、投機、借金などに興味を持っていたので、前作読まないまま、こっちを読み進めてみた。前作読んでいればさらに内容理解がしやすいのだろうけど、読んでなければ今さら読む必要はないんじゃないかな。本作だけ読んでも十分理解できるし。特に借金に関しては当時と今では状況が大きく変わっているので、実用を求めて読むのなら今作だけで充分であろう。

素人の私でもわかりやすく借金圧縮方法を説いてくれるのだが、私が最も興味を持つ個人民事再生等の最近はやりの一般人の借金圧縮方法ではなく、主に中小企業経営者の借金圧縮方法が中心の内容だった。そりゃ著者はそれが専門の人なんだからしょうがないが。個人民事再生にもちゃんと触れているが、その手のことを知りたかったら本書以外の専門の解説書を読んだ方がいい。
おもしろくないわけではない。まったく知らなかった世界の話なのですこぶるおもしろい。ただ当方人に労使される賃金労働者なので、接点が全くない話だったわけで。そこら辺、遊興で作った莫大な借金が大変!な人向きの本ではないというだけ。あ、私は多重債務者じゃないです。奨学金と車のローンがあるから債務なしの身軽な人というわけじゃないですが。

前に聞いた話なので、今は違うのかもしれませんが、会社の代表取締役に就任すると自身の家とかの財産を銀行に抵当として差し出す習慣があったそうな。もちろん代表取締役がそんなことをしなければならない法的義務は何もありません。社長なら会社の経営に対しての責任だけ、株主だとしたら出資した金額の分だけの責任だけ果たせばいいのだけど、今までは経営者に無限責任を求めてきたのですね。そりゃ一度失敗(倒産)すれば無一文とくりゃ、そうそう立ち直れないよ。
そういう人に対して、著者は銀行と闘う方法、借金を踏み倒す方法を教えている人なわけです。読むとほんとに色々な借金圧縮方法が出てくるので、ほへーと驚くばかり。ただ、読んで気づくのは、この著者の借金圧縮方法を実行するには、頼りになる親族友人が必要不可欠な場合が多いということだ。著者がたびたび強調するのは自宅を守ること。これは自宅を失うとやる気を失い、たとえ借金を圧縮したとしても立ち直る確率が悪くなると言う経験則かららしい。で、家を守る方法としてたびたび出てくるのが、家の抵当を増やしてしまって資産価値を無くしてしまい競売にかけられるのを防ぐという方法。この場合、実際に抵当をつけるためにお金を貸してくれる人が必要だし、なおかつ今ある借金が返せなくて苦しんでいるわけだから、新しく借りる金の返済に厳しくない人が必要だ。もちろん、赤の他人でそんな人がほいほいいるわけがない。となると、頼りになるのは血縁地縁の人となるわけだ。
あれですね、やっぱり世の中生き抜くには縁というのは大事ですね。

団塊の世代退職ということで、起業をしてみませんか?とうたっている雑誌や広告とかをたまに見かける。第二の人生として悠々自適になんてことが夢、なんて人がいるのかもしれない。
ただ、人生一寸先は闇なんてことはよくあるわけで。個人事業主というのは、自身が最高責任者で何かあれば自分で対処しなければならない。本書にあるが、経営者が借金で自殺するというのは、追い込みかけられてではなく、手形が落ちないという事態におちいったとき、その後を悲観して追い込まれる前に自ら命を絶ってしまうことが多いらしい。本書は、そんな人に借金など恐れるな、銀行など恐れるなと説く。必ず道は開けると。
私は今後、経営者になんてなることはまずないけど、一旗あげてやろうと意気込んでいる人は、転ばぬ先の杖として本書を読んでおくのもいいかもしれない。


借りたカネはやっぱり返すな!

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書評/ビジネス

地に墜ちた日本航空

ナショナル・フラッグ・キャリアとして日本の空の王者であったJALが苦しんでいる。監査法人に甘い見通しを指摘され財務は資金繰りが厳しく、内部にあっては労働組合の強硬な抵抗。経営が危機的な状況にあっても派閥争いに終始する経営陣。なぜJALが地に墜ちてしまったのか。JALの設立から現在までをたどっていき、ANAや世界の航空業界と比較してJALの問題点、これからを検討する。はたして再びJALの翼が高く飛ぶことはあるのか。

日本の翼、再び飛び上がれるか

〇七年二月に発表された中期計画では金融機関から厳しい枠がはめられた。将来の可能性、公共交通機関としての使命感よりも、路線ごとの採算性を厳しくチェックすることが求められたうえに、対象路線は「なるべく多く」という漠然としたものではなく、「二桁」と明示された。JALはぎりぎり「二桁」の一〇路線を廃止するが、その実施の多くは「切りのよい」翌々四半期(一○ヶ月後の一〇月)からである。
国際線では地方空港発着の路線はほとんど廃止して地元の「JAL離れ」を招いているが、反面では、多額の赤字を生んでいるブラジル線は、ナショナル・フラッグ・キャリアとしての責務を理由に休止しない。ANAが路線ごとの採算性を厳しくチェックし、すべての路線で収支が引き合うよう徹底的に見直したのに比べると、まことに大らかである。

地に墜ちた日本航空―果たして自主再建できるのか 地に墜ちた日本航空―果たして自主再建できるのか
杉浦 一機 (2007/05/31)
草思社

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正直なことを言うと、本書を読むまでJALとANAの区別がついていなかった。飛行機乗らないので興味がなかったのだ。一度も乗ったことがないというわけではないのだが、いずれも人任せだったので飛行機会社の違いなんてまったく考えなかったし興味がなかった。何か違いがあるの?という感じであった。
そんなわけであるから、航空業界については本書ではじめて知ったようなものだ。JAL設立から現在までの流れが記述してあったので、私のような知識がない者でも特に止まることなくすらすらと読めた。基本的にはJALがどうしてダメになったのか、それを主にANAとの対比で述べていることが多い。
国内線のみだったANAが国際線に進出しJALと互角・それ以上の戦いぶりを示し、対抗するようにJALがJASと合併し国内シェアで優位にたとうとしたときもANAはコストカットなどの不断の努力でJALに打ち勝ってきた。シェアを伸ばすANAと、墜ちていくJAL。両者の違いを見れば、JALのどこに問題があるかは良くわかるだろう。

筆者が特に強調するところは2点。JALの大企業病である。社内での意思統一が難しく、トップが改革を行おうとしても、社内調整に手間取り非常に時間がかかる。つまりは意志決定、実行のスピードが遅いのだ。セクショナリズムがひどく、自分の立場を守るために膨大な資料を作り、しかもその資料については具体的なことは作った本人でしか説明できないという。部署によって出す数字に違いが多く、全体的な整合性がとれていない。部署が違えばまったくお互いのことを知らないという体制がまかり通っているとのことである。
もちろん、会社が大きくなってしまえば、縄張り争い等の問題はどうしても発生してしまう。だが、JALの場合、会社自体の存亡の危機だというのに、部門ごとの立場が重視され危機意識が薄いのは、ナショナル・フラッグ・キャリアだからという意識があるからなのだろう。自分たちが日本の空を支えてきた。その自信である。誇りを持つのは大事だろう。ただ、その誇りが、ナショナル・フラッグ・キャリアだから、国は自分の会社をつぶさないとの意識が根底にあるのではないか。親方日の丸というやつである。
だが筆者は言う。アメリカの例を見よ。アメリカのナショナル・フラッグ・キャリアとでも言うべきだったパンナムは航空自由化のあおりを受け倒産した。国際航空について影響力が強いパンナムはアメリカの大きな財産であったが、経営が行き詰まったパンナムをアメリカ政府は見捨て、市場に任したのだ。一昔前ならともかく、国がJALを絶対に見捨てない、などという保証がどこにあるのだろうか。

もう一点は社内の労組の問題だ。JALの中には機上職、地上職など多種多様な労働組合が存在する。それぞれが非常に強硬で、労働組合への根回しだけでも相当な苦労になるという。筆者はパイロットの給料を例に、航空自由化により、世界の航空業界はパイロット等の給料はできる限り押さえてコスト削減に努め、厳しい競争を生き抜いているのに対して、日本のパイロットは世界でもトップクラスの給料をもらっていながら、会社の状況の認識が薄く、非現実的だと非難する。
また、世界の航空会社と比べたときJALは社員数が圧倒的に多い。それは当然コスト面に跳ね返ってくる。 会社が潰れてしまっては給料どころではないはずなのだが、労働組合事態も親方日の丸のJALを国が潰すわけがないという意識を持っているのではないか。労働組合は会社の状況を冷静に見極めて、社内一丸となって危機に対応すべきではないかと著者は呼びかける。

本書の問題点は、結局のところ社内一丸となって危機に対応すべきという結論に落ち着くあたりからわかるとおり、ではJALがどう具体的に危機を乗り越えるべきかという疑問には明確に答えられていないことだろう。読んでいて、JALの悲惨な現状がわかるとともにそれに対する施策の弱々しいことを見るにつけ、いっそ一度潰した方がいいのではないかと思ってしまうのだが、著者の分析によると、潰して再建というプランも難しいとのこと。結局現体制か、銀行主導による経営再建しかないということになる。
日本有数の大企業であり、それゆえに身動きの取れなくなったJAL。このままずるずると墜ちていくままなのか、再び飛び上がることができるのか。JALの現状を知るには非常に有意義な本だった。

今後は飛行機に乗る際に、航空会社に興味が持てそうだ。


地に墜ちた日本航空―果たして自主再建できるのか
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書評/ルポルタージュ

昆虫の雑学事典

全てカラーページで構成され、多種多様な昆虫写真とともに語られる昆虫の世界。特に電子顕微鏡によって撮影されたミクロの世界で見る昆虫が特徴的。昆虫好きならば間違いなく興味深く読める事典になっている。

昆虫の世界へ

アニメ「マジンガーZ」が描く世界に「あしゅら男爵」という、体の左半分が男、右半分が女になっているキャラクターが登場していました。とても奇抜なアイディアに子供心に驚いた記憶がありますが、昆虫の世界ではこの「あしゅら男爵」のような虫が実在しています。

昆虫の雑学事典 昆虫の雑学事典
阿達 直樹 (2007/05/10)
日本実業出版社

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まず本書の想定読者だが、虫好きなのは当たり前か。漫画家の須賀原洋行のように昆虫の写真を見るだけで寝込むような人はまず手も取らないだろうし。ただ、虫愛好初心者ではなく、ある程度いっちゃった人か中学生以上だろうとは思う。わりと専門用語、というか難しい言葉がさらっと出てきて、その言葉に対する説明はなかったりするので低年齢だと読んでてもおもしろくないのではなかろうか。電子顕微鏡で撮った写真が多いので、かなりの虫好きじゃなければ、そこまで楽しめるものではない。

だが、ある程度の虫好きとか、虫を特に好きなわけじゃないけど変わったものには目がないってな人には非常におもしろく読めるだろう。電子顕微鏡で見るクワガタの口器、ゲンゴロウの吸盤のドアップ、スズムシの発声機関、ショウジョウバエの性櫛なんてのは、そう見られる画像ではない。その写真とともに著者の虫に対する愛情が感じられる説明が載っている。

カブトムシやクワガタなんてガキの頃の捕まえたきりだけど、久しぶりに朝の山の中ぶらつきたくなった一冊であった。


見たこともないミラクルワールド 昆虫の雑学事典
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書評/サイエンス

黄色い涙

昭和43年10月。児童漫画を志すも、当時隆盛していた青年漫画にのめり込んでいく村岡青年。が、すぐに行き詰まり公園で一人タバコをふかす日々が続いていた。そんなとき公園で丁半ばくちに興ずる同年代の青年二人と出会い、自分の部屋に誘い、共同生活を始める。何かを求め、何かになろうとする、しかし“何か”がわからない青年たちの群像劇。

過去の捏造

「くどいようだ けど
本当にそれでいいんだね……」
「思いのこすことはないんだね
……
……
じゃ!」
「さょうなら
……
いやいいんだ送ってくれなくても……」

黄色い涙 黄色い涙
永島 慎二 (2006/11/22)
マガジンハウス
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どことなく懐かしい。と私が感じるのは間違いなく錯覚だ。作品の舞台である80年代は、私のとってはガキの時分の話であり、しかも私は作品世界とはほど遠い田舎の子どもであった。都会で自己というやっかいなものに苦しむ青年などとは縁もゆかりもない。だから懐かしいなどと感じるのは、おそらくテレビ等の影響だろうな。懐かしの画像とか作品とかで、これが懐かしんですよ、これこそが青春なんですよ、と繰り返し学習していくうちに自然と80年代というものに懐かしさを感じるようになったのだろう。
ま、私の場合は、昔風とういか事実昔の作品なわけだが、自己表現がどうとかを真剣に扱っている作品なんて、懐かしいをキーワードにしなければ読めない!といった自意識過剰のせいだろうけど。

何はともあれ、久々に読んだ永島慎二作品だ。正直復刊の話を聞いたときは、なぜ今さら永島慎二なのかと不思議だったが、映画化のせいであったか。久々といってもちゃんと読んだことがある作品は、実のところ『青春裁判』だけ。ただ、これにはかなりのショックを受けた。それまで正義のヒーローが活躍する小学生らしいマンガばかり読んでいたのに、唐突に(親父の本棚で見つけた)『青春裁判』ですよ。理解できるわけないじゃないですかっ!てな感じの衝撃を受けたのだけど、この作品の衝撃は今でも続いているような気がするな。今でも内容覚えているものな。
「小学生に青春なんてわからないだろうにね」
「わからないこそ、興味を持ったのだろうね」

この本を現代の役者で映画化か。どうなるんだろうね。出演を見ると、二宮和也、相葉雅紀、大野智、櫻井翔、松本潤とある。だって、原作は主人公(漫画家)が売れることで自分が書きたいことが書けなくなるんじゃないか、魂を売り渡すことになるんじゃないか、なんてことを真剣に悩むのだよ。編集者には、

「ハッキリいうとね
あんたが目指している方向ではこんご十年間は食えませんぜ
良心的すぎる……
売れないね……」
「ハァ売れませんか
……」
「あんた
自分が売れんことを願っているみたいにすら見えるのだが……ね」

なんてことを言われてしまう作品なのですよ。ねえ、大丈夫なのかしらん。

大丈夫なのかしらん。と心配しても広島では放映されないので出来を確認することができないので、どうしようもないのでありますが。DVD待ちかな。

ひねくれた感想になってしまったのは、本書をおもしろく読んでしまったから。でも、なんでおもしろく読めたか上手く言いあらわすことができないから。
普段マンガなぞ読まない父母が、この本だけは手にとっておもしろいと言うのはわかるのですよ。彼彼女らにとては、それこそ本当に懐かしいものでしょうから。
ガキの時分の衝撃ってのは今も残ってはいるけど、既に大人になってしまった私はもう大人のマンガなんていくらでも読んでるわけで、今さら読み返して衝撃なんて受けないわけで。とすると80年代への懐かしさ、なんて経験もしていない過去へのあこがれ・嫉妬なのかな、と思うわけですよ。

夢を求めて都会に出てきたけれど、その夢の現場を目の当たりすると、あれだけつまらなかった郷土での生活こそが自分にふさわしいものではなかったか、と真剣に悩む青年。その青年に対して

「たしかにくにはいいさ
しかしね かんたんに帰れないからいいんだよきっと」
「一時帰処ってのはいいんだが
一度でたものが再び帰ってくらすところではないと思いますよ
くにってのはね」

と諭す喫茶店のマスター。
こんな場面をさらっと書けるのがあの時代なのだろうと思ってしまうし、さらっと書けてしまう状況に憧れているのかもしれない。最近は読む私自身がひねくれたせいで、世の中のマンガはひねくれたものばかり増えてしまったような気がして。

過去への必要以上の憧れは、現実逃避に他ならないのだけど、よく考えたらマンガを読む行為なんてのはたいてい現実逃避だった。マンガを読んでいる間だけは幸せだよね。
なので、おもいっきり幸せな現実逃避をしましょう。


黄色い涙

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書評/

パンプキン・シザーズ

帝国と共和国との戦争が突然の停戦協定により静まって3年。まだ帝国の内部には戦争の傷跡が生々しく残っていた。軍は、帝国の復興と予算獲得のため、人気取り部署として戦災復興部隊・情報三課を設立する。物語は情報三課所属の十三貴族次期当主アリス・L・マルヴィン少尉と存在しない部隊901対戦車猟兵部隊ゲシュペント・イェーガーに所属していたランデル・オーランド伍長が出会うところから始まる。

正しさと寂しさと

やがて失うものに意味がないのなら
あなたの命もまた無意味でしょう

時か 病か 刃か
いずれは奪われる

ならば今すぐ死にますか
同じことです

Pumpkin Scissors 3 (3) Pumpkin Scissors 3 (3)
岩永 亮太郎 (2005/03/17)
講談社

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島本和彦が同人誌で書いてた話だけど、「もう逃げない」ってセリフが一時期はやって、あのセリフを説得力を持って言わすためには、それまでその登場人物は徹底的に逃げていなくちゃいけない。逃げているからこそ、最後に「もう逃げない」って言うことがドラマになるのだと。
読んだとき、思わずひざポンだった。どうりでヘタレ主人公が多いのか。ヘタレ主人公が徹底的にヘタレ。でも最後にもうヘタレじゃない、と。確かにドラマの原型ですね。

ま、そういうドラマは嫌いじゃないんですが(ビルトゥングス・ロマンは大好き)、主人公はかっこよくいて欲しいなと思う。ただ、最初からかっこいい主人公だとドラマを作るのが難しいんでしょうけど。JOJOの奇妙の冒険とか大好きなもんで、そういうマンガ読むとすっごい幸せになります。

で、このマンガの主人公はいまだに伍長か少尉か知らないんですけど、たぶん少尉なんだろうな、と思っております。少尉の物語っぽい。でヘタレ主人公じゃないんですよね。悩みも落ち込みもするけど、ヘタレではないわけです。これ買っても私以外読まないだろうなぁ、と思いつつも5巻まで一気買いしてきたのは、ヘタレじゃない主人公に惹かれたからなわけです。
例えば1巻の第2話で、戦災復興として陥落したトンネルの復旧を試みるのですが、工員として当てにしていた近隣の村に協力を拒否されます。貴族でもある少尉が、我々も共に働くからと頼むのですが、にべもなく断られます。ここで、共に働くといった人の情、善意での問題解決が否定されます。何もできない主人公が汗を流してがんばり、それが周りの人に認められ問題が解決する、といったドラマは、この物語のおける有効な解決手段ではないのです。
悩む主人公に伍長が呟きます。

この国は酷いですね
みんな〝戦災〟っていう病気に冒されて苦しんでいる…

患者は医者に……
自分と同じ病気に罹って欲しいと思うでしょうか

痛みや苦しみをわかって欲しいわけじゃない
仲良しこよしになりたいわけじゃない
望むことはひとつ
〝救って欲しい〟
それだけです!

寂しい考えですけど…

翌朝、少尉は自身が持つ貴族の権威を振りかざし工事への協力を取りつけます。
工事自体は、村人に対しても利になるのです。トンネルが通れば帝国経済復興への一歩となり、復興されればその利はいずれ村人にも巡ってきます。そもそも、工事自体が仕事のない村人への仕事の斡旋になるわけです。村人だってそんなことはわかっているのでしょう。ただ、以前裏切られた軍への不信感、長く続く戦災等、何かに対して憤りをぶつけられずにはいられなかった。
正しいことを為す人は寂しい人なのかもしれない。それでも正しいと信じたことを行うのです。ヘタレな主人公じゃないでしょう。
まあ、最後に村の子どもを命がけで救うドラマを入れるのはご愛敬ですが。

本来、このマンガの見どころは、戦車という凶器に、身ひとつで向かっていく狂気なんですけどね。それを作者の粗い絵でむりやり説得力を持たせている。それもいいのですが、それだけでは買うまではいかなかった。私好みの物語を展開してくれそうだ、という期待での購入です。
でも、家人には予想通り評判悪かったので、オレ専用本棚行きは決定です…

禅僧の生死

人としていかに生きるか、そしていかに死ぬか。日本の禅宗を隆盛へと導いた13世紀の円爾から、16世紀に伽藍を多く復興し禅の道場として活用した太原まで、23人の高僧の死生観を通して人生を考える名著。
「MARC」データベースより

自分と他者

つまり死ぬことの自由は当人によって得られるが、その自由の許される一面に、自の及ばない他のあることを知らなくてはならない。

今も忘れられない話がある。ある禅の老師の話だった。
ある日、夫が交通事故で逝ってしまった奥さんがお寺に来た。しかも夫が事故の加害者なため、莫大なお金を被害者に支払うことになる。夫との子はまだ乳飲み子だった。奥さんはただぼうぜんと本堂に座っておられたという。

我が家の宗派は広島ではポピュラーな安芸門徒であり、んでもってうちは寺とは仲が悪かったりする家だったりするので、だいたいに坊主は嫌いなのだけど、この話にははっとさせられた。
どうしようもない現実(しかも他人の)が目の前に現れたとき、人にいったい何ができるのか。
「子どもさんのためにもがんばらないといけない」「あの世のだんなさんは、あなたの幸せを祈っている」「人生きっといいことがある」このような言葉は、相手に届くだろうか。どうしようもない現実のただ中にいる人と、どこまでいっても第三者でしかない者との溝は深い。自分が老僧の立場だったらどうだろう。上記のセリフをつい言ってしまいそうな気がする。でもそれは相手のためだろうか。この言葉なら相手に届くと思っての発言なのだろうか。
それは結局、相手のための言葉ではなく自分のための発言なのだろう。自分が善意の第三者であることを確認するための発言にしかならない。その偽善性に気づいたとしても、結局自分の無力さの前に押し黙るしかできないだろう。
ただの一般人なら、それでもいいかもしれない。だが、僧侶という立場はそれをゆるさないだろう。僧侶という立場自体は、どうしようもない現実の中にいる人に対して、まったくの無力なのにだ。

傷ついた経験というものは、同じ経験をした者にしかわからない。相談事とか、深刻な話とかで最後の方になって出てくる文句だ。学生時代のいじめとか、リストカットの後とか見せられると、そりゃみんなだまる。
確かにそうだろう、と思う。でも、話はそれで終わりじゃないだろう、とも思う。
それじゃあ、傷ついた経験を持つ者は、明らかに自分より深刻な経験を持つ者に対して、どう言葉を発するのか。どういった言葉を届けるのか。
自分の経験というのはものすごく個人的なことなのだ。あたりまえだけど。
自分の経験(ここでは自分の心、気持ちに言い換え可能だな)を絶対視するのは、自分の心の平穏のためには必要なのかもしれないが、残念ながら人は自分一人だけで生きているのではなく、自分と同じように自分だけの経験を持つ他者と生きている。
傷ついた経験というものは、同じ経験をした者にしかわからない。っていうのは終着点ではない。だいたいに終わりだと思っているものは終わりではない。そこからが思考のスタートなのだ。

言葉を届けるという行為は、不毛で無力感を感じる行いだ。でも、不毛と無力感に押しつぶされながらも言葉を届けようとする人、届けるべきだと信ずる人というのはいて。そして、たいてい言葉は届かず、残るのは不毛と無力感だけなんてことになる。そういった経験は傷ついた経験ではないのかな。違うけどわかってほしいもののような気がする。

てなことは、冒頭に挙げた本書の内容とはあまり関係がない。
本書は題名通り禅僧の生死を著述したものだ。内容についてはふれない。禅僧、というより人の生死など当方には語ることができない。そんな能力は当方に備わっていない。
だが、人というのは、何の縁か人の生死について向きあわねばならぬ時がある。自分の手に余る問題に向きあうなど、思い上がりもはなはだしいのだろうが、人というのはいつかそんな時がやってくるのだろうと思っている。
こういう本を読むのは、いや本を読むという行為自体が、その時に対する備えなのかもしれない。

前田建設ファンタジー営業部

燃えるオトコの工作機械っ!



前田建設工業株式会社。
実在の土建会社である。
これは、その実在の土建会社の一部門のプロジェクトを綴った記録である。
その部門の名は、前田建設ファンタジー営業部。冗談ではない、ホントにあるのだ、そんなふざけた^^名前の部門が。
そこでは、いったいなにがおこなわれているのかぁっ

A.マジンガーZの格納庫や銀河鉄道999の高架橋を造ってます。
って、なんじゃそりゃぁぁぁ。


B主任 さて!! ビデオも見たことだし、結局どんな物を造らにゃいかんか、気付いた点をどんどん挙げてや。みんなでブレーン・ストーミング、たのむわ。
C主任 ブレ・ストか。
D職員 ?……ブレスト……!
[全員] ブレストファイアァアアアー!!
A部長 (飛んで来て)まじめにやれ!!


前田建設ファンタジー営業部
前田建設工業株式会社

幻冬舎 2004-11
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バカだなあ、というのがだいいちに思ったかんそー
もちろんホメ言葉である(そうかぁ?

もちろん、要は企業の広報活動である。あるが、こんな広報活動誰かが思いついても、ふつうやらない。
良く実現できたなぁ、っていのう畏怖の念を、会社人ならまず第一に思うのではないだろうか。
このプロジェクト自体がひとくぎりしたら、そこらへんを含めた全体の総括本を誰かに書いてもらいたいぞ。絶対に買うから。

バカプロジェクトXとは、よく言ったもので、いい大人がマジメにバカをする、っていうのがかっこわるくてかっこいいスタイルの基本だが、それが実在のゼネコンの正規の仕事でするとは、誰が考えたであろうか。


本書は、会社からの密命を受けた前田建設ファンタジー営業部が光子力研究所の弓教授からマジンガーZの地下格納庫一式工事を受注するところからはじまる。
原作に忠実であろうと、『マジーィン・ゴォーッ!と叫ぶと格納庫が開くのか・・・だとすると音声認識装置をつけないといけない。専門の業者さんとの打ち合わせが必要だな』とか、『アニメの放送話ごとに格納庫の大きさも形も違いますが、どれを基準に考えればいいんでしょうか?』など、理不尽な空想科学モノ設定に苦しめられ、果敢に現実の土建屋として現実的に対処する姿は感動的でもある。
だから、本書ではバックホウや削孔機、クレーン車などの働く機械や地中を掘るシールドなどの工作機械の説明や実際には掘削より残土処分のほうが費用がかかる・中央で割れる汚水処理場(マジンガーがせり上がってくるところは実はプールではなく汚水処理場だったのだ)の底は、水圧の関係で真ん中が低いより真ん中が高くなっている方がいいなど、現実の土木建設技術を駆使したアイデア話がもりだくさんになっている。

読んでいて非常におもしろいし、素人にもわかりやすいよう説明に気をつかっているのがわかるのも好評価だ。注釈なども、この手の本にしては豊富。
プロジェクトの狙い通り、建設会社の仕事というものがどういうものか、というのが楽しく知ることができる本になっている。

近年まれに見る良プロジェクト本。ぜひ読むべし。


ちなみにマジンガーZの地下格納庫一式工事は予算七十二億円、工期六年五ヶ月でできるそうだ。

月の影 影の海

異世界と心への旅


小野不由美十二国記シリーズの第一巻。普通の女子高生陽子のもとに、突然ケイキと名乗る不思議な男が現れる。その日から陽子の生活は一変してしまう。ケイキにいざなわれるまま月の影を越えてたどり着いた所は、陽子の全く知らない世界だった。そこで陽子は異分子として追い立てられ、正体のわからぬバケモノに襲われる。突然異世界に流れ着いた陽子の運命は。ケイキとはいったい何者なのか。

――どこに帰るつもりだったのだろう。 待っている人などいないのに。陽子のものは何ひとつなく、人は陽子を理解しない。騙す、裏切る。それにかけてはこちらもあちらも何の差異もない。 ――そんなことは分かっていた。 それでも陽子は帰りたかったのだ


月の影 影の海〈上〉十二国記
小野 不由美
講談社 2000-01


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本書は、普通の少女がある日異世界に紛れ込み、そこでいろいろな経験をするという、ファンタジーの王道なストーリーである。


だが、本書の本質はそこにはない。
ビルドゥングス・ロマンなのである。


主人公の陽子は、異世界に一人でとりのこされる。

そして異世界の住人にことごとく欺かれることになる。
異世界ではじめて親切にされた人に騙され女郎宿に売られそうになる。
また自分とおなじく日本からこの異世界に流されてきた同胞にも騙され有り金を盗まれる。

そして誰も信用できなくなる。

死にそうになっている陽子に水を分け与えてくれた親子を信じられず遠ざける
怪我を直してくれた半獣楽俊をも信じられず、自分の巻き添えになり怪我をした楽俊を見捨ててしまう。


陽子は自分をも信じられなくなったのだ。
人は己を基準にして物事を考える。己が人を無条件で助けることができる人間だと信じられなければ、他人もまたそうだと考える。相手の親切の裏になにかあるのではと考える人は、自分が裏のある人間になっているのだ。困っている人がいれば手をさしのべる、そんな当たり前のことを『自分』はできると信じてやらなければ、他人の当たり前の親切を素直に受けることができない。

本当の意味で、陽子は孤独になるのだ。


そこで陽子は自分の過去を振り返る。
はたして自分は本当の意味で「生きていた」のかと。
波風を立てずまわりと同調することで、穏やかに生きてきた。そのつもりだった。ただそれは、まわりの人を最愛に思い仲良くやってきたのではなかった。単に人と対立するのが疎ましかっただけなのだ。目の前の存在に従うのは、敬っているからではなく、その人に対して己の正しさを主張するが面倒くさいだけだから。とりあえず笑っておけば状況から取り残されることもないし、何も言わなければ集団から浮き出ることもない。ただただ、状況に適応していきてきただけ。そんな過去に自分の生とよべるものがどこにあったのか。

陽子は異世界を旅することになるが、ひとりになることで己の内側へも旅立つことになる。
ただまわりにあわせていけばいいという状況から、誰も信じられず敵意あるものが襲ってくるという状況に置かれた陽子は、『自分』と向きあわざるをえなくなる。襲ってくるバケモノを自分一人でどう対応すればいいのか、目の前にいる初対面の人に対してどう対応していけばいいのか。問題の先送りはできない。なにせ自分の選択に自分の命がかかっているのだ。陽子は自分に何ができるのか、自分は何者なのかを考える。考えざるをえない。はじめて陽子は自分の中にある『自分』と対面することになる。


異世界での旅と、己の心への旅は、おなじことなのだ。本当の自分を探すという目的において。


マネー・ボール

経営としてのプロ野球



メジャーリーグのアスレチックスのことを書いた本。メジャー通は当然ご承知だとは思うが、アスレチックスは変わったチームだ。まず、資金力が乏しい。プレーオフの常連ヤンキースとは比べものにならない。しかし、アスレチックスはそのプレーオフの常連なのだ。なぜ少ない投資で、多大な投資をしたヤンキースと同じ結果が出せるのか。そのことをアスレチックスのGMビリー・ビーンを中心にして解き明かす。野球を科学的に解明したい人必見の本。

あなたは4000万ドル持っていて、野球選手を25人雇おうとしています。一方、あなたの敵は、すでに1億2600万ドル投資して25人の選手を雇ってあり、あとさらに1億ドルのゆとりを残しています。さて、あなたがこの敵と戦って、みっともない負けかたをせずにに済ますためには、手元の4000万ドルをどのように使えばいいですか。


マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男
マイケル・ルイス 中山 宥
ランダムハウス講談社 2004-03-18


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本書は非常におもしろい本である。まあ著者の力量不足で素材を使い切れていない、構成が下手等の難点はあるが、アスレチックスという素材がそれを補う以上におもしろい。
ただしかし、この本が野球好き向きかといえば難しい。本当に野球というものを好きな方なら、内容に賛成・反対でも楽しめると思うのだが、野球とはビール片手にプロ野球を見て騒ぐもの、野球を通じて精神を磨く、故にバントは絶対だ等々の考え方を持っておられる方は読まない方が無難だろう。

本書はメジャーリーグの球団のひとつであるアスレチックスを書いたものである。アスレチックスは奇妙なチームだ。まず採用する選手が変わっている。他のチームが興味を持たないような選手を獲るのだ。足が遅い。守備が下手だ。弱肩、ロートル、ふとっちょ等々ほかの球団なら獲得リストからまっさきにはずすような選手ばかりを獲る。しかし、その落ちこぼれ選手がみごとに活躍するのだ。
第二にアスレチックスは小技を使わない。バント、盗塁、エンドラン等々のベンチワークは御法度なのだ。攻撃は四球で塁を埋め、長打で返すという戦法だ。日本の野球指導者が一番嫌う戦術だが、これでアスレチックスは毎回プレーオフに進出している。

なぜこんなチーム運営をするのか。まず資金力の問題がある。プレーオフの常連ヤンキースの資金力と比べれば、アスレチックスの資金力はないも同然だ。ヤンキースとは違うアプローチで選手を集めなければ、資金力で上回るチームに勝てるはずがない。
そこでアスレチックスがとったのは、野球に統計学の手法を採りいれることだ。過去のメジャーの試合のデータを調べ、エラー数や打点などのあいまいなデータを取捨選択し、本当に勝利に関係しているポイントはどこかを探りだした。打線において重要なのは出塁率と長打率である。勝利のためには守備力より打撃力のほうが重要であり、守備力は5%の重要性しか持っていないとの結論に達した。

ちなみにエラー数や打点がなぜあいまいな数字なのかは、エラーと判定されるかどうかが主観に頼っているからだ。守備範囲の広い選手ががんばってボールに追いついてこぼした場合エラー、守備範囲がせまい選手が同じボールをワンバンドで安全にキャッチした場合ヒット。これを同じ数字と判定することが、公平で確実なデータになるだろうか。打点については、それはたまたまヒットを打ったときにランナーがいたからであり、本来ランナーも打点を生み出すのに重要なはずなのだ。だが打点という数字はそんなことを考慮に入れていない。

だから、アスレチックスは他のチームが見向きもしないロートルや鈍足、ふとっちょでも出塁率がすばらしければ獲得するのである。
バント等の小技についてもそうだ。データを調べてみるとバントやエンドラン、盗塁はやってもやらなくても得点力にはあまり関係なく、むしろアウトカウントを相手にくれてやるだけの、無駄なことなのだ。アスレチックスのフロントはバント等のベンチワークを監督のいいわけ以外の何者でもないと完全に禁止した。もしやるのなら100%成功する場面でなければやってはいけない。失敗でもしたらワンマンGMビリー・ビーンの逆鱗に触れてトレード対象になってしまうのだ。

日本の高校野球経験者には、まずもって受け入れがたい戦略だろう。野球のロマンを感じられない試合なんて、走攻守すべてに優れた選手がみせる試合こそが野球だ、と憤慨する向きもあるかもしれない。しかしアスレチックスがこの経営戦略で優秀な成績を残しているのは事実だ。
そう経営戦略と書いた。これは経営なのだ。
フロントの仕事は野球のロマンを語ることではない。勝てるチームを作るため戦略を持ち、勝つための選手を集め、勝つための指示を現場に与える。そう一般の企業なら経営陣がやるあたりまえの仕事だ。ただ野球だけがその『あたりまえ』が『あたりまえ』ではなかっただけだ。

今回のライブドアの近鉄買収騒ぎのさいに、ある球団幹部から売名行為との批判が出た。これを聞いて爆笑してしまった人は多かったろう。今プロ野球球団を所有している企業で売名目的でないところがあるのだろうか。一部のチームをのぞいて企業名が入っているプロ野球球団名。ユニフォームに宣伝効果を狙ってでかでかと書いてある企業名。これが売名行為以外の何者なのだろうか。
球団経営者の意識は、これらは売名行為ではなく野球という文化を守るためにやっているんだ、くらいのものかもしれない。そのためには少々企業の利益を考えても当然じゃないか、必要経費だ、という思いなのかもしれない。だが、本当に野球という文化を守っているつもりなら、ファンが悲しむに決まっている球団合併などをなぜ考えるのか。結局のところプロ野球経営は、大企業の社長の優雅な趣味のひとつでしかない。だからITなんて新参者がこの高級サロンに入ってくることがおもしろくないのだ。

アスレチックのフロントが野球のロマンなんて微塵も信じないビジネスマンに変わったところで、ファンがどれだけ悲しんだのだろうか。常勝チームになることで、球場に人はあふれ、球団売却も合併の話もない。経営者は経営を、選手は現場で野球を、ファンは地元の球場でプロ野球を楽しむ。三者はただ自らがあたりまえのことをしただけなのだ。そこには野球のロマンなどは作用していない。あたりまえのことを、あたりまえのようにしただけだ。だけど、すべては順調にいっている。

日本の野球界のニュースをみるごとに、あたりまえのことをあたりまえにやるという難しさをあらてめて実感してしまう今日このごろであった。

燃えるV

惜しいっ



常に勝ち続ける男狭間武偉、またの名をビクトリー狭間。。。育ての親源を失い一人さすらう武偉は、ひょんなことからテニスに出会う。黒百合高校の三日月真澄、緑沢高校の赤十字風郎などと知り合い、テニスの世界にはまっていく。そしてその道は武偉が探し求める生きわかれの父への最短ルートでもあった。島本和彦的テニスマンガ、ここにあり。

それが男のテニスってもんだ!! わかんねえだろうがなあ…!!
燃えるV』全3巻
島本和彦 大都社
実は中学の時テニス部だった。



惜しい。
惜しすぎる。

あのころこのマンガを知っていたら、間違いなく部の中で広めて、みんなで迎撃ビクトリーとかスパイダーガッデムとかやって楽しんだのに(やるなよ)。
やっぱり部活動の楽しみってそういうところにあるんだよねぇ(そうか?)。


基本的な構図は『逆境ナイン』などの島本マンガ本流と同じである。
この作品のおもしろいところは、ライバル赤十字とのからみであろうか。
熱血マンガを描く島本和彦だが、ライバルモノが実は多くない。
主人公のキャラでもっていく作風だからライバルというモノを生かすのが難しいのだろう。
が、本作品ではめずらしく最初から最後までライバル赤十字がいい味を出している。
本作は、島本本流作品のなかではめずらしく、作品の魅力がキャラの力よりストーリーに負っているパーセンテージが高いような気がするのはそのためだろう。

いまから部活動でテニスを楽しくやろうとする人にオススメ

恋愛小説

愛のカタチ



中谷彰宏恋愛小説シリーズ。5ページくらいのストーリーで構成されている掌篇小説集。どのストーリーも短いが味わい深く、短いが故に文面には現れてこない部分を想像してしまう。この言葉の意味は……、この後二人は……、この人の過去は……、次から次ぎへと浮かんでくるストーリー。いつの間にか、8ページの話が大長編ロマンに変わってしまいます。どの話も幸福な読後感に浸ることができます。シリーズは『恋愛小説』『恋愛日記』『恋愛旅行』『恋愛美人』『恋愛運命』『恋愛不倫』の全6巻。

僕は、大きな勘違いをしていた。君は、嫌なことがあるたびに、引っ越しをするのだと思っていた。そうではなかった。君は、幸せになると引っ越しをするのだ。幸せにしがみついて、不自由にならないために。君にとっては、幸せさえも、お荷物なのだ。
『恋愛小説』
中谷彰宏 読売新聞社



私は短篇小説が好きである。
長篇小説が嫌いというわけではないが、やはりキレのある短篇の魅力に惹かれてしまう。
まあ、最近むやみやたらに長い小説が流行っているということも、短篇への愛情を深める一因になっているのかもしれない。

本書は掌篇小説で構成されている。
掌篇小説とは文字どおり掌に載るような小説のこと。
短篇よりも短い小説なのだ。当然私は掌篇小説が好きになった。

この本のなかは、恋愛でいっぱいである。
三年前の私ならこの本を読んでも、こんなことありえるわけないだろ、としか思えなかっただろう。
それほどいろんな恋愛(ドラマ)が描かれている。

友人たちと一緒に飲んでいると、大抵出てくる話題がある。
恋愛である。
友人たちの恋愛話を聞いてみると、世の中なんて広いんだと思う。
事実は小説より奇なり。この経験により、私は『恋愛小説』を読んで、その内容に納得できるようになった。

友人知人たちの愛のカタチ
・彼女の卒業式に、スーツに赤い薔薇を一輪というカッコで参上し、一言も言葉を発せず薔薇を渡して去る。
・彼女を、裸の上にコート一枚という格好でコンビニにティラミスを買いに行かせる男。
・渡部篤郎の話題で盛りあがったということで、つきあうことを決めたカップル。
・「彼女とは冷静に話し合ってお互い納得して別れたよ」というセリフを、酒をガブ呑みしながら何十回と繰り返す男。
・一週間ごとに彼女を変える。
・相手の前では赤ちゃん言葉で話す。もちろん寝るときはヒザを抱えてまるまった状態で寝る。
・旅の一夜、酔っぱらった勢いで友達の想い人とひとつのベットで寝てしまう。
・彼女が欲しいと一日に百回は言うくせに、女の子の顔を見て話ができない男。
・中学生の時、つきあっていた上級生と別れる場面で、柳沢慎吾ばりに「あばよ!」と言い走り去った男。
・遊び人のふりをして、事実年中遊んでいた男が、実は結婚していてしかも子供までいることに三年間気付かなかった。
・同じ理由でケンカし、別れ、再びくっつくという行事をあきずに年中やっているカップル。

私が大学時代、一番学んだことは世の中にはホントにいろんな人がいる、ということである。

全力投球 我が選んだ道に悔いはなし

広島でもっとも愛された男



プロ野球界の至宝“大投手”大野豊が自ら初めて書き下ろす、その生き方、考え方、そしてピッチャーとしての数々の打者との対戦・・・。軟式野球出身、信用組合勤務からテスト生でのプロ入り、デビュー戦の“天文学的”防御率135などなど数々の苦難を乗り越え、22年間に渡る栄光の実績と、42歳でのタイトル(最優秀防御率)獲得はいかにしてなしえたのか。その不屈の神髄がいま初めて描かれる! (裏表紙あらすじより)

はっきり言って、その場で選手生命が終わっていても不思議ではない、非常識な数字だ。しかし、この135.00という数字があったからこそ、プロの厳しさや怖さをこの身に焼きつけながら常に自分を戒め、22年間の生涯防御率を2.90という数字で終わらせることができたと思っている。
 大野豊はこの数字から始まった投手だということを、決して忘れたくない。


全力投球―我が選んだ道に悔いはなし
大野 豊
宝島社 2001-02


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北別府、大野、川口。
カープの黄金時代を支えた三本柱である。

このうちもっとも実力があるのは北別府であろう。
なんといっても二十世紀最後の200勝投手である。

しかし、もっとも人気があったのは大野豊だ。


普通、野球選手をイメージキャラクターに使っているCMは、その選手が引退してユニホームを脱いだら、他の人を使うかして、その人はもう使わない。
しかし、大野豊だけは引退後も現役時代と変わらないイメージでCMを使い続けられた。
それほど、広島では大野豊が愛されているのだ。

テスト生入団ながらも努力の一文字で栄光を手にする。そして気さくで飾らない人柄。彼のやさしさと誠実さは、ファンなら誰でも知っている。
そんな人間的魅力こそ、大野豊が愛される理由だ。

もちろん、人柄とプロ野球選手としての実力は全く関係ない。
プロは結果がすべての世界だ。
活躍しなければ、どんなに人間的魅力がある人だろうが注目されないし、愛されもしない。
だから私は人気選手の人柄や私生活などいっさい興味がない。
そんなモノは、野球選手にとっては無意味だからだ。

だが、何事にも例外はある。
大野豊だ。
彼のプレーを見るたびに、心が震えた。
彼に限っては、その人間的魅力がプレーに直接結びついているのだ。
彼のプレーひとつひとつから、大野豊という人間が伝わってきた。
彼独特のフォームから放たれるボールには、達川のミットにおさまる最後まで、彼の意志がこもっていた。
己が選んだ道を、ただ愚直に、前に進むのみ。

大野豊は、言葉ではなく、語りかけていた。
自分の信念を。自分という人間を。
そんな選手を見たのは、大野豊が初めてであり、最後でもある。


思い返せば、私がカープファンになったきっかけは、大野豊の投球である。
いまでも、あのときの一球を思い出すことができる。

あの一球を忘れない限り、私は野球ファンであり続けるし、大野豊がいた球団広島東洋カープを応援し続けるだろう。

活字狂想曲

現実不適合者



怪奇幻想作家としての地位を固めた感のある倉阪鬼一郎のエッセイみたいな本。彼のサラリーマン時代のことを書いてある。怪奇幻想作家VS会社というモノの戦いは圧巻。

これは、まったく向いていない会社勤めを十一年間続けた、ある現実不適応者の記録である。


活字狂想曲
倉阪 鬼一郎
幻冬舎 2002-08


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本書は、日本で唯一の怪奇幻想作家(ホラー作家ではない)である倉阪鬼一郎が、印刷会社でサラリーマンなるものをしていた日々を綴ったものである。

なにしろ日本で唯一の怪奇幻想作家であるから「会社」なんてものに馴染むわけがない。
だが、会社帰りの飲ミニケーション、昇給=昇級の誘惑などという「会社世間」の重圧は重い。
それに一度でも甘い顔を見せたらどれだけのうっとうしい事態になるか。
だから怪奇幻想作家はあの手この手で「会社世間」と闘い、身をかわす。

本書が安心して読めるのは、著者である怪奇幻想作家が、自分が正しくて「会社世間」が間違っているから会社世間と闘っているのではない、という点だ。
この点を間違えると、ただたんに飲み屋で上司がバカだとグチるサラリーマンと変わりない。自分は「会社世間」に絡めとられていないと思っているのだが、もうすでにその行為が「会社世間」そのものである。
怪奇幻想作家が闘うのは、自分がイヤだからである。それだけだ。
なぜイヤなのかと聞かれれば、怪奇幻想作家だから、としか答えるしかない。
だから、「会社世間」の人たちを見る目線もどこかやさしい。(というかユーモラス?)
時には「会社世間」側に感情移入してしまうこともあるかもしれない。と油断しているといつの間にか「会社世間」のまっただなかにいる、という事態になるかもしれんが。
まあ、あっち側に違和感なくいられる方が幸せなのかも・・・


今も「会社世間」の重圧に苦しんでいる人はぜひこの本を手本にすべき。
ただし、変わり者として周囲から白い目で見られるという栄誉に耐えられる人のみ

のら

真の自由



名前も家も持たない女性が主人公のお話。一話完結型の体裁になっている。彼女はいろんな街、いろんな人を訪れる。彼女が何かをするわけではない。「何か」は、名前も家も何にも持たない彼女と出会った人々の中に起こる。何も持たない彼女を見て、たくさんのモノを抱えた人々は何を思うのか。

なんでって 見たいだけなんだよ 目につくもの何でも 都合のいいこと悪いこと きれいなもの汚いもの へんなもの無意味なもの 普通であたりまえのこと  見るためなら つかえる金はすべてつかう 来る面倒は拒まない
のら』1~3巻 
入江紀子著 アスペクトコミックス



自由こそ正義だった。

人は信仰なしには生きられない。
信仰の対象が神さま仏さまから民主主義、自由、個人に変わってもだ。

私は自由を信仰していた。
自由こそが人の目指すべき至高の状態、何事にもかえ難いものだと、そう確信していた。
そしてそれは皆もおなじだとのんきに信じ込んでいた。
だが、そうではなかった。

教師が言う「君たちは自由なんだよ。生まれつき自由なんだ」という台詞を無邪気に信じていたこと。
同級生の教師や親、世の中に対する反抗心は、自由への渇望から生まれたものだと思っていたこと。
今となっては思い出すだけで恥ずかしい。

人は自由なんて真には欲していないのだ。
束縛されて、己の存在意義を確保したい。己のちっぽけな存在を認めたくないから、自分だけを認めてくれる人を欲し、ひとりになることを極端に恐れる。
私の最大の間違いはすべての人間にとって、自由であることが幸福である、自由=幸福だと信じていたことだ。
そうではないのだ。


『のら』の主人公は自由である。
でも、彼女は幸福だろうか。
彼女は言うかもしれない。「こうやって、ご飯食べられていろんな人に会えているんだから幸せに決まっているようん♪」また、こうも言うかもしれない。「幸福かどうかなんてわかんないよ。だって、私はむかしっからずっとこうして生きているんだもの」

自由というものは目指すべき目標ではないのだ。
それは宿命なのだ。
自由にしか生きることのできない者達だけのものなのだ。

なにかに束縛されて生きることは幸せなことなのだ。
己を束縛しようとするもの、それは他人であったりもっと大きなものであったりするのだが、そういったものと拘束されたくない自分との間でおこる戦い、緊張感からしか人の生きる意義は見いだせないからだ。


私は今いろんなものに束縛されて幸せである。

日本人のための宗教原論

新しい時代を生きるために



小室宗教学の決定版。小室博士にはいくつかの宗教本があるが、その集大成が本書。イスラム教・キリスト教・仏教・儒教の各宗教を、詳しく説明している。一般にいわれている宗教への認識がいかに誤っているかが本書を読めばわかる。宗教学初心者にもわかりやすく書いてあるので、宗教学入門書には最適。この本を読んだ瞬間からあなたは宗教博士になれるのは間違いない。

ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。あなたを救うのも宗教、あなたを殺すのも宗教である。


日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか
小室 直樹
徳間書店 2000-07


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21世紀は宗教の時代といわれる。
それは、逆説的かもしれないが世界がグローバル化して いるからである。
国境がなくなり世界がひとつになる、というのがよくいうグローバル化の効用であるが、ことはそう単純ではない。
実のところグローバル化は世界のキリスト教文化圏化にほかならない。
日本人のように宗教オンチで、宗旨が違っても同じ「人間」として分かり合うことができる、などという寝言を平気で吐く人種にはグローバル化など関係ないかもしれないが、世界中の大多数のまじめに宗教を信じる人達にとっては大問題なのである。

キリスト教が生んだ資本主義や民主主義、近代法などで世界を統一しようとする力と、それに対立するイスラムなどの諸地域の文化。
このふたつの争いの後、世界がキリスト教文化一色に染まるのか、文明の衝突が絶えることがない世界、はたまた新たな価値観の世界を産み出すのか、それはとても難しく、そして重要な問題である。
今現在わかっているのは、この問題を語るときに宗教を避けてとおる事ができないということである。

小室直樹のことについてはいまさら私が語ることもないだろう。
この世界において比すべき人を見つけることができない世紀の大天才といっておけば足りるだろう。
ソビエト崩壊という予言に続き、現在日本の末期的アノミーを的中させた小室直樹。
いまや、彼を抜きにして日本の状況を語ることは不可能である。
その著者の渾身の宗教論。
読めば、あなたの未来への道は豁然と開かれるであろう。


羊をめぐる冒険

村上春樹のおもしろさ



美しい耳の彼女と共に、星形の斑紋を背中に持っているという一頭の羊と<鼠>の行方を追って、北海道奥地の牧場にたどりついた僕を、恐ろしい事実が待ち受けていた。一九八二年秋、僕たちの旅は終わる。すべてを失った僕の、ラスト・アドベンチャー。村上春樹の青春三部作完結編。野間文芸新人賞受賞作。(裏表紙あらすじより)

「でもそれは遅かれ早かれいつかは消えるはずのものだったんだ。俺や君や、それからいろんな女の子たちの中で何かが消えていったようにね」


羊をめぐる冒険 (下)
村上 春樹
講談社 2004-11


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羊をめぐる冒険 (上)
村上 春樹
講談社 1985-10


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肉体的ではないのだなと思う。
肉体感がないところが好きなのだ。
肉体的ではないといっても現実感がないわけではない。
肉体的で現実感がない小説というのもある。


本書を私は下巻から読んだ。
別段意味があるわけではない。
ただ単に下巻だと気付かなかっただけだ。

これが下巻であるということを100ページを過ぎたあたりで気が付いた。
表紙の(下)という文字を見るまでこれは上巻であると信じきっていたのだ。

この本をもう読んでいる友人からは下巻から読んでて内容を理解できなかっただろうと言われた。

だが私には読んでいる最中まったく違和感はなかった。
確かにいきなり出てくる人物の話題などさっぱり理解できない事柄などはあったが村上春樹の小説はそういうものだという気持が私の中にあった。

事実下巻から読んでいても十分おもしろかった。

つまりはそういうことなのだろうと思う。

村上春樹の小説は下巻から読もうがエンディングから読もうがいいのだ。

基本的には小説のおもしろさを決めるのはシナリオである。
だが、村上春樹のおもしろさはシナリオではない。
村上春樹のシナリオが悪いといっているわけではない。
むしろ村上春樹のシナリオはすばらしいと思う。

勘違いで下巻から読んでも、それはそれでおもしろいと思うことができる作家。
それが村上春樹なのだ。



まあ、そう思っているのは私だけかもしれないが。

天国への階段

物語への責任



天国への階段を一緒にのぼることを約束した女に裏切られ、帰るべき故郷を失った男柏木圭一。彼は東京で成功し、若き実業家となった。力を得た柏木は、故郷を失うことの原因をつくった男に対しての復讐を計画する。だが、着々と準備を進める柏木のもとに差出人不明の脅迫状が届く。それは、柏木の許し難い罪を暴こうとするものだった。はたして柏木の復讐はどうなるのか。

そのなかに圭一さんの姿を目にしたのです。天国に昇る階段を前にして、たった一段をも昇れずにうずくまっている圭一さんの姿を‥‥


天国への階段〈上〉
白川 道
幻冬舎 2003-04


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復讐の話が大好きである。

だから本初の上巻を読んでいる最中は興奮しながら読んでいた。
久しぶりに骨太の復讐話が読めると思ったからだ。
だが、読み進めていくうちにがっかりしてしまった。
途中から復讐話ではなくなったのだ。

私はそのうち、主人公柏木圭一と、その敵江成達也との暗闘が始まり、そこに謎の人物本橋一馬や桑田警部が絡んでくるのだと思っていたのだが、そんな闘いいっさいなし。
いつのまにか、復讐話が昔失った男と女の縁を取り戻すいい話になってしまっていた。

まあ、すごくいい話だとは思うし、これはこれでいいのだろうけど‥‥
前半読んで、期待してしまった私の気持ちをどうしろというのだ。
もっとぐちゃぐちゃとした昏い話を求めていたのに。
男って奴のどうしようもなさ、人のくだらなさ、こんなことをしても何にもならないとわかっているのに修羅の道を進んでしまう愚かさ、そんなものを期待していたのだが。


わかっている。
大多数の人は私とは違うということは。
みんないい話が好きなんだ。
救いようもない話なんて、誰も求めていやしないんだからな、このご時世じゃ。

私的には不満の残る一冊。

外食王の飢え

選ばれた者の宿命



外食産業の覇者を目指した男の野望と情熱。私大卒業まぎわ、倉原礼一は卒論を破り捨てた。自分は一流の人間でなければならぬ。私大卒の資格はいらない。野望は福岡に端を発した。レストラン「レオーネ」のチェーン化に奔走する倉原。一方首都圏には沢兄弟の「サンセット」が進出。倉原は首都決戦を挑んだ。(裏表紙あらすじより)


いま、ここで卒論を出しても、それらの人々の仲間入りをするだけ。平坦で、地を這うような人生へとふみ出すことになる。それより、いっそ卒論を破れば、あとは荒野か、原始林か、山なのか、谷なのか、皆目わからぬ人生が来る。


外食王の飢え
城山 三郎
講談社 1987-02


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経済小説の書き手としては一番好きな城山三郎の最高傑作。一大で巨大レストランチェーンを築き上げた男の物語である。

大きなことを為し遂げる男というのは、何者かの大いなる意志によって動いているのではなかろうか。

そう思うことが、成功者の評伝を読んでいるときにある。
もちろん本人は自分で考え決断しているのだが、俯瞰してみると最初から定められた道をたどっているように見えるのだ。

その道に進もうとした最初の一歩、数々の苦難・逆境、大きな成功、そして終焉。

本書の主人公倉原礼一の人生も、そのように書かれているように私は思う。
働き過ぎによって体をこわしぼろぼろになっても、なお前に進み続ける。
そこにはもはや外食産業の覇者を目指すという当初の目的はない。
前に進まなければならないという何者かの声を聞いているかのように、行きつく所が奈落の底だとしても前に進む、ただそれだけである。

だから私は本書のラストに、納得した。

このような生き方をしてきた人間は、このように終わらなければならないはずだ。
そう読みながら思っていたからだ。

選ばれた男はいかに生きるべきか。
その答えがここにある。

The Star この星

あたりまえの物語



林原めぐみが自分で撮ったフォトと掌編を組み合わせた本。四編の短い物語が収録されている。あとがきによればそれは「フィクションだったり、ノンフィクションだったり、夢だったり、過去にも書いたことのリメイクだったり……。私が私として生きるうえで、どこかしら支えであり、基盤であり、みちしるべのような言葉、空気、感覚をつづった」ものである。読後不思議な感覚包まれる本。

まずは、明日しっかり働こう
音楽のことも、もう一度ちゃんと考えよう
それは悩むという角度より
15度ほど上向きな気がする……


この星
林原 めぐみ
KTC中央出版 2002-04-02


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人間誰にだって物語があるという。

このときの『物語』とはなんだろう。
ハリウッド映画並の弾丸、爆発、アクション連続の物語だろうか。
ロミオとジュリエットのようなとんでもなく深刻な愛物語だろうか。
そんな大げさな物語を『誰だって』もっているだろうか。


毎日決まった時間に起き、毎日決まった場所に行き、毎日決まった仕事をし、毎日決まった店で酒を飲む。
そんなでこぼこがない人生を死ぬまで続ける人もいる。
そんな平坦な人生に物語はあるのだろうか。
おそらく、その平坦な人生を送ること自体が物語なのだろう。

人があたりまえに生きる、ということ自体がすごいことなのだ。
もちろん生きている本人は、それが『すごい』ことなんていう自覚はないのだけれど。
でも、人というのはふと気付くことがある。『自分があたりまえに生きている』ということを。
きっとそんなとき、平凡な人生が物語になるのだろう。


この本に書かれていることは、『自分があたりまえに生きていることのすごさ』を気付いた瞬間の物語なのだろう。

誰でも出会うかもしれない風景がこの本にはある。
年老いた父と母をひどい渋滞の中送る最中、父が呟いた一言。
生き方も考えも違うけれども、それでもなぜか気の合う友の一言。
それぞれのきっかけから人はそれぞれいろんなことを考える。
自分の父と母の人生を思い、そしてその人生を受け継いでいる己。
友人の悩みにシンクロし、ふがいない自分を振り返る。また別の友人の一言から、後悔の念から抜け出しひとつの決意を持つ。

己が誰かがわかったところで現実が大きく変わるわけではない。ひとつの決意を固めたからといって、なにかが劇的に変わるわけではない。ただあたりまえの日常が待っているだけだ。
ただなにかに気付くことで、今までのあたりまえの日常とは違ってくるのだと思う。
漫然とあたりまえの日常を送るだけと、自覚的にあたりまえの日常を送るのは違うはず。

爆発も大アクションも大恋愛もないけれど、自分が生きる場所はこの『あたりまえの日常』なのだ。
そしてそのことに気付くことが『物語』だ。
自分には物語がある、そう思うことが人の幸せにつながるのだと、私は信じたい。