物語は、原爆投下後10年を経た広島から始まる。あの惨禍から力強く復興しつつある町並み、そこに暮らす人々。それまでと同じような日常を暮らす人々。だが、だからこそか、あのことについては誰も触れない。街のいたる処に、自分自身にあの時の傷跡が深く残っているというのに。
夕凪の街の主人公皆実は、半袖の服を着ようとしない。自分の腕に残ったあの時の傷跡を見てしまうからだ。
そんな皆実は、職場の同僚と心を通わすことになる。お互いの気持ちを確かめあった瞬間、あの時の風景が甦る。建物は中の人ごと潰れ、消えることのない火が街を包む。道も川も辺り一面死体であふれ、肉親でさえ見分けのつかなくなった様相の人々がさまよい歩く。自分に何が起こったのか、何を訴えればいいのか、何一つわからない人々のうめき声で埋まる、かつて街だった土地。
その中で、父を失った。妹を失った。友を失った。あらゆるものが奪われた日が、愛す者の後ろに見えた。
たまらず皆実は駆け出すほかなかった。あの地獄の光景が甦る。なぜ、自分だけ助かったのか。自分は生きていてもいいのか。あの風景を抱えたまま幸せになることなど出来るのか。
第二編桜の国では、その後の人々、被爆二世三世が主役となる。
時は平成16年。皆実の弟旭は、一家の主として被爆者の妻とともに娘七波、息子凪生を育てた。妻が亡き後は家族三人暮らしだ。
七波は、不審な行動をとる父旭が心配で尾行をする。出かけた父が向かった先は広島だった。あの時から60年。あの時のことは時が経とうとも終わることがなかった。
すべて失った日に
引きずり戻される
おまえの住む世界は
ここではないと
誰かの声がする
![]() | 夕凪の街桜の国 (2004/10) こうの 史代 商品詳細を見る |
何度読んでも傑作である。傑作であるが故に語りづらいのではあるが。
私自身は被爆三世になる。だが、ずっと広島で生活していたからか、凪生のような苦しみを経験したことはない。当たり前だが、同級生に被爆三世なんてごろごろいたのだ。たいていみんな気にしていない。
ただ、それは私が広島に生まれ育ったからで、祖母の家に泊まっては、夜あの時の話を聞いた経験があるからだろう。広島長崎以外の人にとっては原爆など、遠い昔に落ちた爆弾であって、放射能という怖いものを浴びた人がいて、その子孫が今も生きている、というだけの話なのだろう。
被爆者も高齢化し、もはや亡くなっても大往生となり誰も原爆のせいだろうとは思いもしない。私が病に倒れたとしても、それは原爆の影響ではなく日頃の不摂生のせいだと周りからなじられるのが関の山だろう。でも、私が被爆三世なのは事実で、いつ死んでもおかしくない人間なのかもしれない。
もはや、もう誰もわからないのだろうと思う。過去には、自分が被爆者と知られるのを恐れて被爆者手帳を申請しない人は大勢いたが、今や医療費負担をしてくれる手帳を誰もがほしがり、あいつは被爆してないのに手帳を持っているなどの陰口が流れる。あの日を生き残り、その後も幸福にも長寿を得た今、あの時の記憶を抱えたまま、変わらない日常を送らねばならない。
認定被爆者の基準についての裁判が進行中であるが、あれも金が欲しいのではなく、あの時受けた衝撃を、心の穴を、何かによって埋めたいのだと思う。
市内を本通りなどを歩くとき、思うのだ。ほんの昔ここは地獄だったのだと。自分の足下には幾重もの死体が埋まっているのだと。
だが、思うだけだ。すぐに変わらない日常のもと歩き出す。
原爆は語りづらい。
8月6日付けの記事なのに他に言うことはないんですか?
というお叱りのコメントでした。
私が原爆を語りづらいのは、「原爆の日」自体を他者への攻撃材料にしてしまう人がいるからだ。
もはや被爆者ですら、あの時の記憶を傷を思いを、どうにも出来なくなっているのだと思う。あの時の光景を抱えたまま、生き続け子を為し、育て親としての仕事を終えた後、ふと振り返ってみると原点にあの時の光景がある。その気持ちは、本人でない私にはとうていわからない。あの時の光景を幼い私に語る祖母の目を、私は忘れることは出来ないだろう。
そういった、原爆に対してどうにもならない気持ちが、平和記念資料館やはだしのゲンに代表される直球の表現ではなく、複雑なそれでいて深い傷として表現した本作に共感できた理由だろう。
もう少しすれば、あの光景を目に焼き付けた人たちはいなくなる。その子どもたちである私が、何をすればいいのか未だにわからないけれども、祖母たちのように生き続けていかねばならないだろう。この夕凪の街で。
前著「借りたカネは返すな!」の出版から5年。債務圧縮のノウハウの普及、法改正などにより時代は変わった。もはや借金を過度に恐れる必要なんてない。決意次第で、債務は合法的に圧縮できる。たかがお金のことで自殺なんてばからしいのです。借金と闘うためのノウハウ本、再び。
これもよくいわれることですが、経営者が自殺するときに、手形の不渡りが出て1ヶ月後に自殺するケースは聞いたことがありません。たいていは、不渡りが出る直前に電車に飛び込もうとするのです。 なぜか。それは、不渡りが出て倒産すると自分がどうなるか、会社がどうなるか、まったく見えないからです。
![]() | 借りたカネはやっぱり返すな! (2007/06/01) 金野 力/神山 典士 商品詳細を見る |
前作、借りたカネは返すな!は名前だけは知っている本だった。
それが最近色々とあり貯蓄、投機、借金などに興味を持っていたので、前作読まないまま、こっちを読み進めてみた。前作読んでいればさらに内容理解がしやすいのだろうけど、読んでなければ今さら読む必要はないんじゃないかな。本作だけ読んでも十分理解できるし。特に借金に関しては当時と今では状況が大きく変わっているので、実用を求めて読むのなら今作だけで充分であろう。
素人の私でもわかりやすく借金圧縮方法を説いてくれるのだが、私が最も興味を持つ個人民事再生等の最近はやりの一般人の借金圧縮方法ではなく、主に中小企業経営者の借金圧縮方法が中心の内容だった。そりゃ著者はそれが専門の人なんだからしょうがないが。個人民事再生にもちゃんと触れているが、その手のことを知りたかったら本書以外の専門の解説書を読んだ方がいい。
おもしろくないわけではない。まったく知らなかった世界の話なのですこぶるおもしろい。ただ当方人に労使される賃金労働者なので、接点が全くない話だったわけで。そこら辺、遊興で作った莫大な借金が大変!な人向きの本ではないというだけ。あ、私は多重債務者じゃないです。奨学金と車のローンがあるから債務なしの身軽な人というわけじゃないですが。
前に聞いた話なので、今は違うのかもしれませんが、会社の代表取締役に就任すると自身の家とかの財産を銀行に抵当として差し出す習慣があったそうな。もちろん代表取締役がそんなことをしなければならない法的義務は何もありません。社長なら会社の経営に対しての責任だけ、株主だとしたら出資した金額の分だけの責任だけ果たせばいいのだけど、今までは経営者に無限責任を求めてきたのですね。そりゃ一度失敗(倒産)すれば無一文とくりゃ、そうそう立ち直れないよ。
そういう人に対して、著者は銀行と闘う方法、借金を踏み倒す方法を教えている人なわけです。読むとほんとに色々な借金圧縮方法が出てくるので、ほへーと驚くばかり。ただ、読んで気づくのは、この著者の借金圧縮方法を実行するには、頼りになる親族友人が必要不可欠な場合が多いということだ。著者がたびたび強調するのは自宅を守ること。これは自宅を失うとやる気を失い、たとえ借金を圧縮したとしても立ち直る確率が悪くなると言う経験則かららしい。で、家を守る方法としてたびたび出てくるのが、家の抵当を増やしてしまって資産価値を無くしてしまい競売にかけられるのを防ぐという方法。この場合、実際に抵当をつけるためにお金を貸してくれる人が必要だし、なおかつ今ある借金が返せなくて苦しんでいるわけだから、新しく借りる金の返済に厳しくない人が必要だ。もちろん、赤の他人でそんな人がほいほいいるわけがない。となると、頼りになるのは血縁地縁の人となるわけだ。
あれですね、やっぱり世の中生き抜くには縁というのは大事ですね。
団塊の世代退職ということで、起業をしてみませんか?とうたっている雑誌や広告とかをたまに見かける。第二の人生として悠々自適になんてことが夢、なんて人がいるのかもしれない。
ただ、人生一寸先は闇なんてことはよくあるわけで。個人事業主というのは、自身が最高責任者で何かあれば自分で対処しなければならない。本書にあるが、経営者が借金で自殺するというのは、追い込みかけられてではなく、手形が落ちないという事態におちいったとき、その後を悲観して追い込まれる前に自ら命を絶ってしまうことが多いらしい。本書は、そんな人に借金など恐れるな、銀行など恐れるなと説く。必ず道は開けると。
私は今後、経営者になんてなることはまずないけど、一旗あげてやろうと意気込んでいる人は、転ばぬ先の杖として本書を読んでおくのもいいかもしれない。
ナショナル・フラッグ・キャリアとして日本の空の王者であったJALが苦しんでいる。監査法人に甘い見通しを指摘され財務は資金繰りが厳しく、内部にあっては労働組合の強硬な抵抗。経営が危機的な状況にあっても派閥争いに終始する経営陣。なぜJALが地に墜ちてしまったのか。JALの設立から現在までをたどっていき、ANAや世界の航空業界と比較してJALの問題点、これからを検討する。はたして再びJALの翼が高く飛ぶことはあるのか。
〇七年二月に発表された中期計画では金融機関から厳しい枠がはめられた。将来の可能性、公共交通機関としての使命感よりも、路線ごとの採算性を厳しくチェックすることが求められたうえに、対象路線は「なるべく多く」という漠然としたものではなく、「二桁」と明示された。JALはぎりぎり「二桁」の一〇路線を廃止するが、その実施の多くは「切りのよい」翌々四半期(一○ヶ月後の一〇月)からである。
国際線では地方空港発着の路線はほとんど廃止して地元の「JAL離れ」を招いているが、反面では、多額の赤字を生んでいるブラジル線は、ナショナル・フラッグ・キャリアとしての責務を理由に休止しない。ANAが路線ごとの採算性を厳しくチェックし、すべての路線で収支が引き合うよう徹底的に見直したのに比べると、まことに大らかである。
![]() | 地に墜ちた日本航空―果たして自主再建できるのか 杉浦 一機 (2007/05/31) 草思社 この商品の詳細を見る |
正直なことを言うと、本書を読むまでJALとANAの区別がついていなかった。飛行機乗らないので興味がなかったのだ。一度も乗ったことがないというわけではないのだが、いずれも人任せだったので飛行機会社の違いなんてまったく考えなかったし興味がなかった。何か違いがあるの?という感じであった。
そんなわけであるから、航空業界については本書ではじめて知ったようなものだ。JAL設立から現在までの流れが記述してあったので、私のような知識がない者でも特に止まることなくすらすらと読めた。基本的にはJALがどうしてダメになったのか、それを主にANAとの対比で述べていることが多い。
国内線のみだったANAが国際線に進出しJALと互角・それ以上の戦いぶりを示し、対抗するようにJALがJASと合併し国内シェアで優位にたとうとしたときもANAはコストカットなどの不断の努力でJALに打ち勝ってきた。シェアを伸ばすANAと、墜ちていくJAL。両者の違いを見れば、JALのどこに問題があるかは良くわかるだろう。
筆者が特に強調するところは2点。JALの大企業病である。社内での意思統一が難しく、トップが改革を行おうとしても、社内調整に手間取り非常に時間がかかる。つまりは意志決定、実行のスピードが遅いのだ。セクショナリズムがひどく、自分の立場を守るために膨大な資料を作り、しかもその資料については具体的なことは作った本人でしか説明できないという。部署によって出す数字に違いが多く、全体的な整合性がとれていない。部署が違えばまったくお互いのことを知らないという体制がまかり通っているとのことである。
もちろん、会社が大きくなってしまえば、縄張り争い等の問題はどうしても発生してしまう。だが、JALの場合、会社自体の存亡の危機だというのに、部門ごとの立場が重視され危機意識が薄いのは、ナショナル・フラッグ・キャリアだからという意識があるからなのだろう。自分たちが日本の空を支えてきた。その自信である。誇りを持つのは大事だろう。ただ、その誇りが、ナショナル・フラッグ・キャリアだから、国は自分の会社をつぶさないとの意識が根底にあるのではないか。親方日の丸というやつである。
だが筆者は言う。アメリカの例を見よ。アメリカのナショナル・フラッグ・キャリアとでも言うべきだったパンナムは航空自由化のあおりを受け倒産した。国際航空について影響力が強いパンナムはアメリカの大きな財産であったが、経営が行き詰まったパンナムをアメリカ政府は見捨て、市場に任したのだ。一昔前ならともかく、国がJALを絶対に見捨てない、などという保証がどこにあるのだろうか。
もう一点は社内の労組の問題だ。JALの中には機上職、地上職など多種多様な労働組合が存在する。それぞれが非常に強硬で、労働組合への根回しだけでも相当な苦労になるという。筆者はパイロットの給料を例に、航空自由化により、世界の航空業界はパイロット等の給料はできる限り押さえてコスト削減に努め、厳しい競争を生き抜いているのに対して、日本のパイロットは世界でもトップクラスの給料をもらっていながら、会社の状況の認識が薄く、非現実的だと非難する。
また、世界の航空会社と比べたときJALは社員数が圧倒的に多い。それは当然コスト面に跳ね返ってくる。
会社が潰れてしまっては給料どころではないはずなのだが、労働組合事態も親方日の丸のJALを国が潰すわけがないという意識を持っているのではないか。労働組合は会社の状況を冷静に見極めて、社内一丸となって危機に対応すべきではないかと著者は呼びかける。
本書の問題点は、結局のところ社内一丸となって危機に対応すべきという結論に落ち着くあたりからわかるとおり、ではJALがどう具体的に危機を乗り越えるべきかという疑問には明確に答えられていないことだろう。読んでいて、JALの悲惨な現状がわかるとともにそれに対する施策の弱々しいことを見るにつけ、いっそ一度潰した方がいいのではないかと思ってしまうのだが、著者の分析によると、潰して再建というプランも難しいとのこと。結局現体制か、銀行主導による経営再建しかないということになる。
日本有数の大企業であり、それゆえに身動きの取れなくなったJAL。このままずるずると墜ちていくままなのか、再び飛び上がることができるのか。JALの現状を知るには非常に有意義な本だった。
今後は飛行機に乗る際に、航空会社に興味が持てそうだ。
全てカラーページで構成され、多種多様な昆虫写真とともに語られる昆虫の世界。特に電子顕微鏡によって撮影されたミクロの世界で見る昆虫が特徴的。昆虫好きならば間違いなく興味深く読める事典になっている。
アニメ「マジンガーZ」が描く世界に「あしゅら男爵」という、体の左半分が男、右半分が女になっているキャラクターが登場していました。とても奇抜なアイディアに子供心に驚いた記憶がありますが、昆虫の世界ではこの「あしゅら男爵」のような虫が実在しています。
![]() | 昆虫の雑学事典 阿達 直樹 (2007/05/10) 日本実業出版社 この商品の詳細を見る |
まず本書の想定読者だが、虫好きなのは当たり前か。漫画家の須賀原洋行のように昆虫の写真を見るだけで寝込むような人はまず手も取らないだろうし。ただ、虫愛好初心者ではなく、ある程度いっちゃった人か中学生以上だろうとは思う。わりと専門用語、というか難しい言葉がさらっと出てきて、その言葉に対する説明はなかったりするので低年齢だと読んでてもおもしろくないのではなかろうか。電子顕微鏡で撮った写真が多いので、かなりの虫好きじゃなければ、そこまで楽しめるものではない。
だが、ある程度の虫好きとか、虫を特に好きなわけじゃないけど変わったものには目がないってな人には非常におもしろく読めるだろう。電子顕微鏡で見るクワガタの口器、ゲンゴロウの吸盤のドアップ、スズムシの発声機関、ショウジョウバエの性櫛なんてのは、そう見られる画像ではない。その写真とともに著者の虫に対する愛情が感じられる説明が載っている。
カブトムシやクワガタなんてガキの頃の捕まえたきりだけど、久しぶりに朝の山の中ぶらつきたくなった一冊であった。
昭和43年10月。児童漫画を志すも、当時隆盛していた青年漫画にのめり込んでいく村岡青年。が、すぐに行き詰まり公園で一人タバコをふかす日々が続いていた。そんなとき公園で丁半ばくちに興ずる同年代の青年二人と出会い、自分の部屋に誘い、共同生活を始める。何かを求め、何かになろうとする、しかし“何か”がわからない青年たちの群像劇。
「くどいようだ けど
本当にそれでいいんだね……」
「思いのこすことはないんだね
……
……
じゃ!」
「さょうなら
……
いやいいんだ送ってくれなくても……」
![]() | 黄色い涙 永島 慎二 (2006/11/22) マガジンハウス この商品の詳細を見る |
どことなく懐かしい。と私が感じるのは間違いなく錯覚だ。作品の舞台である80年代は、私のとってはガキの時分の話であり、しかも私は作品世界とはほど遠い田舎の子どもであった。都会で自己というやっかいなものに苦しむ青年などとは縁もゆかりもない。だから懐かしいなどと感じるのは、おそらくテレビ等の影響だろうな。懐かしの画像とか作品とかで、これが懐かしんですよ、これこそが青春なんですよ、と繰り返し学習していくうちに自然と80年代というものに懐かしさを感じるようになったのだろう。
ま、私の場合は、昔風とういか事実昔の作品なわけだが、自己表現がどうとかを真剣に扱っている作品なんて、懐かしいをキーワードにしなければ読めない!といった自意識過剰のせいだろうけど。
何はともあれ、久々に読んだ永島慎二作品だ。正直復刊の話を聞いたときは、なぜ今さら永島慎二なのかと不思議だったが、映画化のせいであったか。久々といってもちゃんと読んだことがある作品は、実のところ『青春裁判』だけ。ただ、これにはかなりのショックを受けた。それまで正義のヒーローが活躍する小学生らしいマンガばかり読んでいたのに、唐突に(親父の本棚で見つけた)『青春裁判』ですよ。理解できるわけないじゃないですかっ!てな感じの衝撃を受けたのだけど、この作品の衝撃は今でも続いているような気がするな。今でも内容覚えているものな。
「小学生に青春なんてわからないだろうにね」
「わからないこそ、興味を持ったのだろうね」
この本を現代の役者で映画化か。どうなるんだろうね。出演を見ると、二宮和也、相葉雅紀、大野智、櫻井翔、松本潤とある。だって、原作は主人公(漫画家)が売れることで自分が書きたいことが書けなくなるんじゃないか、魂を売り渡すことになるんじゃないか、なんてことを真剣に悩むのだよ。編集者には、
「ハッキリいうとね
あんたが目指している方向ではこんご十年間は食えませんぜ
良心的すぎる……
売れないね……」
「ハァ売れませんか
……」
「あんた
自分が売れんことを願っているみたいにすら見えるのだが……ね」
大丈夫なのかしらん。と心配しても広島では放映されないので出来を確認することができないので、どうしようもないのでありますが。DVD待ちかな。
ひねくれた感想になってしまったのは、本書をおもしろく読んでしまったから。でも、なんでおもしろく読めたか上手く言いあらわすことができないから。
普段マンガなぞ読まない父母が、この本だけは手にとっておもしろいと言うのはわかるのですよ。彼彼女らにとては、それこそ本当に懐かしいものでしょうから。
ガキの時分の衝撃ってのは今も残ってはいるけど、既に大人になってしまった私はもう大人のマンガなんていくらでも読んでるわけで、今さら読み返して衝撃なんて受けないわけで。とすると80年代への懐かしさ、なんて経験もしていない過去へのあこがれ・嫉妬なのかな、と思うわけですよ。
夢を求めて都会に出てきたけれど、その夢の現場を目の当たりすると、あれだけつまらなかった郷土での生活こそが自分にふさわしいものではなかったか、と真剣に悩む青年。その青年に対して
「たしかにくにはいいさ
しかしね かんたんに帰れないからいいんだよきっと」
「一時帰処ってのはいいんだが
一度でたものが再び帰ってくらすところではないと思いますよ
くにってのはね」
過去への必要以上の憧れは、現実逃避に他ならないのだけど、よく考えたらマンガを読む行為なんてのはたいてい現実逃避だった。マンガを読んでいる間だけは幸せだよね。
なので、おもいっきり幸せな現実逃避をしましょう。
帝国と共和国との戦争が突然の停戦協定により静まって3年。まだ帝国の内部には戦争の傷跡が生々しく残っていた。軍は、帝国の復興と予算獲得のため、人気取り部署として戦災復興部隊・情報三課を設立する。物語は情報三課所属の十三貴族次期当主アリス・L・マルヴィン少尉と存在しない部隊901対戦車猟兵部隊ゲシュペント・イェーガーに所属していたランデル・オーランド伍長が出会うところから始まる。
やがて失うものに意味がないのなら
あなたの命もまた無意味でしょう時か 病か 刃か
いずれは奪われるならば今すぐ死にますか
同じことです
![]() | Pumpkin Scissors 3 (3) 岩永 亮太郎 (2005/03/17) 講談社 この商品の詳細を見る |
島本和彦が同人誌で書いてた話だけど、「もう逃げない」ってセリフが一時期はやって、あのセリフを説得力を持って言わすためには、それまでその登場人物は徹底的に逃げていなくちゃいけない。逃げているからこそ、最後に「もう逃げない」って言うことがドラマになるのだと。
読んだとき、思わずひざポンだった。どうりでヘタレ主人公が多いのか。ヘタレ主人公が徹底的にヘタレ。でも最後にもうヘタレじゃない、と。確かにドラマの原型ですね。
ま、そういうドラマは嫌いじゃないんですが(ビルトゥングス・ロマンは大好き)、主人公はかっこよくいて欲しいなと思う。ただ、最初からかっこいい主人公だとドラマを作るのが難しいんでしょうけど。JOJOの奇妙の冒険とか大好きなもんで、そういうマンガ読むとすっごい幸せになります。
で、このマンガの主人公はいまだに伍長か少尉か知らないんですけど、たぶん少尉なんだろうな、と思っております。少尉の物語っぽい。でヘタレ主人公じゃないんですよね。悩みも落ち込みもするけど、ヘタレではないわけです。これ買っても私以外読まないだろうなぁ、と思いつつも5巻まで一気買いしてきたのは、ヘタレじゃない主人公に惹かれたからなわけです。
例えば1巻の第2話で、戦災復興として陥落したトンネルの復旧を試みるのですが、工員として当てにしていた近隣の村に協力を拒否されます。貴族でもある少尉が、我々も共に働くからと頼むのですが、にべもなく断られます。ここで、共に働くといった人の情、善意での問題解決が否定されます。何もできない主人公が汗を流してがんばり、それが周りの人に認められ問題が解決する、といったドラマは、この物語のおける有効な解決手段ではないのです。
悩む主人公に伍長が呟きます。
この国は酷いですね
みんな〝戦災〟っていう病気に冒されて苦しんでいる…患者は医者に……
自分と同じ病気に罹って欲しいと思うでしょうか痛みや苦しみをわかって欲しいわけじゃない
仲良しこよしになりたいわけじゃない
望むことはひとつ
〝救って欲しい〟
それだけです!寂しい考えですけど…
翌朝、少尉は自身が持つ貴族の権威を振りかざし工事への協力を取りつけます。
工事自体は、村人に対しても利になるのです。トンネルが通れば帝国経済復興への一歩となり、復興されればその利はいずれ村人にも巡ってきます。そもそも、工事自体が仕事のない村人への仕事の斡旋になるわけです。村人だってそんなことはわかっているのでしょう。ただ、以前裏切られた軍への不信感、長く続く戦災等、何かに対して憤りをぶつけられずにはいられなかった。
正しいことを為す人は寂しい人なのかもしれない。それでも正しいと信じたことを行うのです。ヘタレな主人公じゃないでしょう。
まあ、最後に村の子どもを命がけで救うドラマを入れるのはご愛敬ですが。
本来、このマンガの見どころは、戦車という凶器に、身ひとつで向かっていく狂気なんですけどね。それを作者の粗い絵でむりやり説得力を持たせている。それもいいのですが、それだけでは買うまではいかなかった。私好みの物語を展開してくれそうだ、という期待での購入です。
でも、家人には予想通り評判悪かったので、オレ専用本棚行きは決定です…
人としていかに生きるか、そしていかに死ぬか。日本の禅宗を隆盛へと導いた13世紀の円爾から、16世紀に伽藍を多く復興し禅の道場として活用した太原まで、23人の高僧の死生観を通して人生を考える名著。
「MARC」データベースより
つまり死ぬことの自由は当人によって得られるが、その自由の許される一面に、自の及ばない他のあることを知らなくてはならない。
今も忘れられない話がある。ある禅の老師の話だった。
ある日、夫が交通事故で逝ってしまった奥さんがお寺に来た。しかも夫が事故の加害者なため、莫大なお金を被害者に支払うことになる。夫との子はまだ乳飲み子だった。奥さんはただぼうぜんと本堂に座っておられたという。
我が家の宗派は広島ではポピュラーな安芸門徒であり、んでもってうちは寺とは仲が悪かったりする家だったりするので、だいたいに坊主は嫌いなのだけど、この話にははっとさせられた。
どうしようもない現実(しかも他人の)が目の前に現れたとき、人にいったい何ができるのか。
「子どもさんのためにもがんばらないといけない」「あの世のだんなさんは、あなたの幸せを祈っている」「人生きっといいことがある」このような言葉は、相手に届くだろうか。どうしようもない現実のただ中にいる人と、どこまでいっても第三者でしかない者との溝は深い。自分が老僧の立場だったらどうだろう。上記のセリフをつい言ってしまいそうな気がする。でもそれは相手のためだろうか。この言葉なら相手に届くと思っての発言なのだろうか。
それは結局、相手のための言葉ではなく自分のための発言なのだろう。自分が善意の第三者であることを確認するための発言にしかならない。その偽善性に気づいたとしても、結局自分の無力さの前に押し黙るしかできないだろう。
ただの一般人なら、それでもいいかもしれない。だが、僧侶という立場はそれをゆるさないだろう。僧侶という立場自体は、どうしようもない現実の中にいる人に対して、まったくの無力なのにだ。
傷ついた経験というものは、同じ経験をした者にしかわからない。相談事とか、深刻な話とかで最後の方になって出てくる文句だ。学生時代のいじめとか、リストカットの後とか見せられると、そりゃみんなだまる。
確かにそうだろう、と思う。でも、話はそれで終わりじゃないだろう、とも思う。
それじゃあ、傷ついた経験を持つ者は、明らかに自分より深刻な経験を持つ者に対して、どう言葉を発するのか。どういった言葉を届けるのか。
自分の経験というのはものすごく個人的なことなのだ。あたりまえだけど。
自分の経験(ここでは自分の心、気持ちに言い換え可能だな)を絶対視するのは、自分の心の平穏のためには必要なのかもしれないが、残念ながら人は自分一人だけで生きているのではなく、自分と同じように自分だけの経験を持つ他者と生きている。
傷ついた経験というものは、同じ経験をした者にしかわからない。っていうのは終着点ではない。だいたいに終わりだと思っているものは終わりではない。そこからが思考のスタートなのだ。
言葉を届けるという行為は、不毛で無力感を感じる行いだ。でも、不毛と無力感に押しつぶされながらも言葉を届けようとする人、届けるべきだと信ずる人というのはいて。そして、たいてい言葉は届かず、残るのは不毛と無力感だけなんてことになる。そういった経験は傷ついた経験ではないのかな。違うけどわかってほしいもののような気がする。
てなことは、冒頭に挙げた本書の内容とはあまり関係がない。
本書は題名通り禅僧の生死を著述したものだ。内容についてはふれない。禅僧、というより人の生死など当方には語ることができない。そんな能力は当方に備わっていない。
だが、人というのは、何の縁か人の生死について向きあわねばならぬ時がある。自分の手に余る問題に向きあうなど、思い上がりもはなはだしいのだろうが、人というのはいつかそんな時がやってくるのだろうと思っている。
こういう本を読むのは、いや本を読むという行為自体が、その時に対する備えなのかもしれない。
B主任 さて!! ビデオも見たことだし、結局どんな物を造らにゃいかんか、気付いた点をどんどん挙げてや。みんなでブレーン・ストーミング、たのむわ。
C主任 ブレ・ストか。
D職員 ?……ブレスト……!
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それが男のテニスってもんだ!! わかんねえだろうがなあ…!!
『燃えるV』全3巻
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実は中学の時テニス部だった。
僕は、大きな勘違いをしていた。君は、嫌なことがあるたびに、引っ越しをするのだと思っていた。そうではなかった。君は、幸せになると引っ越しをするのだ。幸せにしがみついて、不自由にならないために。君にとっては、幸せさえも、お荷物なのだ。
『恋愛小説』
中谷彰宏 読売新聞社
はっきり言って、その場で選手生命が終わっていても不思議ではない、非常識な数字だ。しかし、この135.00という数字があったからこそ、プロの厳しさや怖さをこの身に焼きつけながら常に自分を戒め、22年間の生涯防御率を2.90という数字で終わらせることができたと思っている。
大野豊はこの数字から始まった投手だということを、決して忘れたくない。
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これは、まったく向いていない会社勤めを十一年間続けた、ある現実不適応者の記録である。
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なんでって 見たいだけなんだよ 目につくもの何でも 都合のいいこと悪いこと きれいなもの汚いもの へんなもの無意味なもの 普通であたりまえのこと 見るためなら つかえる金はすべてつかう 来る面倒は拒まない
『のら』1~3巻
入江紀子著 アスペクトコミックス
ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。あなたを救うのも宗教、あなたを殺すのも宗教である。
![]() | 日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか 小室 直樹 徳間書店 2000-07 by G-Tools |
「でもそれは遅かれ早かれいつかは消えるはずのものだったんだ。俺や君や、それからいろんな女の子たちの中で何かが消えていったようにね」
![]() | 羊をめぐる冒険 (下) 村上 春樹 講談社 2004-11 by G-Tools |
![]() | 羊をめぐる冒険 (上) 村上 春樹 講談社 1985-10 by G-Tools |
そのなかに圭一さんの姿を目にしたのです。天国に昇る階段を前にして、たった一段をも昇れずにうずくまっている圭一さんの姿を‥‥
![]() | 天国への階段〈上〉 白川 道 幻冬舎 2003-04 by G-Tools |
いま、ここで卒論を出しても、それらの人々の仲間入りをするだけ。平坦で、地を這うような人生へとふみ出すことになる。それより、いっそ卒論を破れば、あとは荒野か、原始林か、山なのか、谷なのか、皆目わからぬ人生が来る。
![]() | 外食王の飢え 城山 三郎 講談社 1987-02 by G-Tools |
まずは、明日しっかり働こう
音楽のことも、もう一度ちゃんと考えよう
それは悩むという角度より
15度ほど上向きな気がする……
![]() | この星 林原 めぐみ KTC中央出版 2002-04-02 by G-Tools |